兵庫県の戦国史
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■ 兵庫県の戦国史

# 応仁の乱が始まると、東軍総帥の細川勝元嘉吉の乱で没落していた赤松政則に命じて西軍の山名宗全の分国だった播磨国備前国を攻めさせた。赤松政則は山名軍を播磨国から駆逐して奪還、実質的に播磨国を支配した。文明15年(1483年)に、赤松政則はさらに山名氏の本拠の但馬国に侵攻したが宗全の子の政豊に大敗して、これを機に重臣の浦上氏が台頭した。【出典

# 浦上氏備前国の三石城(岡山県備前市三石)を本拠として備前国東部から播磨国西部に勢力を持ち、次第に守護の赤松義村を凌ぐ勢力をもった。やがて、義村と対立して、永正18年(1521年)には垣屋続成が山名政豊を攻めた。【出典

# 天文6年(1537年)に出雲国尼子氏播磨国に侵攻して、以後は度々攻めて赤松政村は淡路国や境に逃亡した。代わって村上宗景が天神山城(岡山県和気町)に拠って尼子氏と対峙して、独立した戦国大名になった。【出典

# 摂津国では、有力氏族だった池田氏織田信長に降って、のちに池田氏が内訌で没落すると、家臣の荒木村重にとって代わられた。【出典

# 天正5年(1577年)に毛利氏播磨国に侵攻し、一方織田信長豊臣秀吉に中国地方の攻略を命じ、秀吉はまず但馬国に侵攻した。この際、別所長治は一旦は織田信長に通じたものの、天正6年に離反して毛利氏方について、さらに摂津国の有岡城の荒木村重も謀反。激しい戦闘の末に、天正7年には有岡城、8年には三木城が落城した。豊臣秀吉は翌年には淡路国も制圧し、現在の兵庫県域はほぼ織田信長の支配下になった。そして、本能寺の変後に、秀吉は天正年間中に摂津国・播磨国・但馬国・丹波国・淡路国に次々と自らの家臣を配置して、豊臣政権における大名配置が固まった。【出典

戦国時代とは

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