山梨県内の「武田」の名字の詳細
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■ 武田(たけだ): 山梨県の武田家 

# 山梨県の武田家: 源義光の子孫で、甲斐国に勢力をはった。本家は武田勝頼の時代に織田信長に滅ぼされた。【出典

# 山梨県の武田氏: 甲斐国の戦国大名清和源氏の出で、新羅三郎義光の子の義清が常陸国吉田郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)に住んで武田冠者と称したのが祖。その後、義清とその子の清光が罪を得て甲斐国巨摩郡市河荘(山梨県市川三郷町)に流されて土着し、清光は谷戸城(山梨県北杜市大泉町)を拠点として甲斐武田氏となった。その二男の信義は甲斐国巨摩郡甘利荘に転じて甲斐武田氏の嫡流を継ぎ、源平の合戦では源頼朝に従って功をあげた。戦後、駿河国の守護となったが1184年に解任され、さらに武田氏の伸長を畏れた頼朝によって信義の長男の忠頼と叔父義定が謀殺された。信義のあとは五郎信光が継いで安芸国の守護もかねたが、以後勢力はあまり振るわなかった。南北朝時代、信武は北朝に属して甲斐国の守護となり、以後代々世襲、安芸国の守護を回復。以来、一族を周辺に分出しながら勢力を拡大した。信重は甲斐国を逃れてしばらく不遇の時代を過ごし、1438年に足利義教の庇護の下に帰国して守護に復帰した。1507年、10歳で家督を継いだ信虎は、叔父の油川信恵との争いに終止符をうち、都留郡の小山田氏、巨摩郡の大井氏を相次いで降し、石和から甲府に転じて躑躅ヶ崎館に拠った。1532年には甲斐国をほぼ制覇、さらに信濃国に進出した。子の信玄は1541年に父の信虎を駿河国に追放して家督を継ぐと、1547年には「甲斐法度」を定めて、領国経営に乗り出した。1564年には信濃国も支配し、1568年には駿河国も支配し、1572年にはついに上洛をこころみたが、翌年信濃国伊那郡駒場で客死した。跡をついだ勝頼は、1575年の長篠合戦で徳川・織田の連合軍に大敗し、以後勢力が衰えた。1578年には上杉氏の家督争いに関して北条氏と断絶、1582年には織田信長に敗れて長男の信勝と共に天目山で自刃し、宗家は絶えた。【出典

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