新潟県内の「長尾」の名字の詳細
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■ 長尾(ながお): 新潟県の長尾家

# 新潟県の長尾家: 室町時代に守護代として越後国に移り住んだ。後に上杉謙信が出た。【出典】 

# 越後国守護代。越後の長尾氏は関東長尾氏の一族ではあるが、系譜上のつながりについては諸説あり不詳。南北朝時代に越後国の守護代になった景恒が祖。景恒の三男の高景は三条城に拠って三条長尾氏になり、越後の守護代を継いで上杉房方を守護に迎えた。子の邦景は応永の乱では関東公方方につき、永享の乱では幕府方に与して上杉持氏と戦った。宝徳2年(1450年)に、邦景が守護の上杉房定から切腹を命じられると、代わって甥の頼景が守護代に就任した。以後、越後長尾氏の嫡流は頼景の系統に移った。永正4年(1507年)に為景は上杉房能の養嗣子の定実を擁して守護の上杉房能に叛旗を翻し、自害させた。さらに永正6年、房能の実兄で関東管領の顕定が上田長尾氏とともに為景討伐の軍をおこすと、為景は顕定を長森原(新潟県南魚沼市)で討ち、以後は実質的に越後国を支配した。享禄3年(1530年)に上杉氏の一族の上杉定憲が旧上杉勢力を結集して上条城(柏崎市)で再起し、長尾為景と争った。これを天文の大乱という。この戦いは、天文5年(1536年)に為景が死去したため、決着しないまま終息した。しかし、跡を継いだ長男の晴景が病弱であったことから、今度は国衆たちが従わなくなり、国内が再び乱れた。そこで、二男の景虎が兄に代わって長尾家の家督を相続。天文19年に守護の上杉定実が跡継ぎのないままに死去すると、将軍の足利義輝から越後国の国主として認められ、一族の坂戸長尾家や北条城主の北条氏を討って越後国を統一した。さらに、上杉憲政から上杉氏の家督も譲られて上杉謙信を号し、戦国大名となった。以後は、春日山城に拠り、越後国越中国能登国加賀国飛騨国上野国を支配した。子の景勝は、豊臣秀吉の五大老の一人として会津若松で120万石を領した。【出典

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