群馬県の戦国史
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■ 群馬県の戦国史

# 上野国守護関東管領山内上杉氏がつとめ、守護代としては長尾氏が力を持っていた。長尾氏は上野国内に本拠をもつ白井長尾氏、総社長尾氏と、上野国と武蔵国の国境に転じた鎌倉長尾氏の三家に分かれ、とくに総社長尾氏の勢力が強かった。鎌倉長尾氏は応永23年(1416年)の上杉弾秀の乱で満景が討ち死にしたことで勢力を失った。【出典

# 東毛地区では衰退した新田氏嫡流に代わって、岩松氏が新田一族の惣領となっていったが、岩松氏も礼部家と京兆(けいちょう)家に分裂して対立、文明元年(1469年)に礼部家の家純が家老の横瀬国繁の助けを得て両家を統合した。その後、岩松尚純は横瀬国繁・由良成繁父子と争って敗れ、以後は横瀬氏が実質的に東毛を支配した。横瀬氏は後に由良氏を称した。【出典

# 文明8年(1476年)に上杉氏古河公方の足利成氏が対立すると、白井長尾氏長尾景春が上杉氏に叛いた。上杉氏と古河公方が和睦したのちに、景春は独立状態になり、さらに上杉氏の内紛や古河公方の内訌も加わって上野国は混乱状態になった。永禄4年(1531年)に管領になった上杉憲政は平井城を本拠とし上杉氏を再建、信濃国に出兵するまでに回復したが、天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏に大敗、北条氏方に転じる上野国衆が続出し、天文21年に憲政は越後国に逃れ、長尾景虎に上杉氏の名跡を継がせた。【出典

# その後、越後国の上杉謙信が上野国に進出する一方、信濃国からは武田信玄が侵攻し、永禄9年(1566年)には箕輪城主の長野業盛を自刃させて上野国西部を支配した。天正6年(1578年)に上杉謙信の死去、その跡目争いの中で真田氏が沼田城を奪取、さらに武田氏が滅ぶと、真田氏は信濃国真田と上野国沼田を所領すると大名に発展した。厩橋には滝川一益が入ったが、本能寺の変で滝川一益は逃亡、上野国の大半は北条氏の支配下になった。そして、天正18年(1590年)に北条氏が滅ぶと、新たに江戸に入部した徳川家康の領国になった。【出典

戦国時代とは

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