群馬県内の「大河内」の名字の詳細
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■ 大河内(おおこうち): 群馬県の大河内家

# 高崎藩主の大河内家は、三河国額田郡大河内(愛知県岡崎市)をルーツとし、清和源氏頼光流。源頼政の孫の顕綱が大河内郷に住んで大河内氏を称した。のちに足利義氏に仕えた。【出典

# 群馬県内には少ないが、桐生市やみどり市にみられる。【出典

# 群馬県の大河内家: 高崎藩主老中の松平(おおこうち)信綱の五男の信興は徳川家綱の小姓組番頭から、1679年に若年寄となって諸侯に列し、1682年に秦者番として常陸土浦2万2000石に入封。後に3万2000石に加増された。輝貞は1692年に下野壬生を経て、1695年に上野高崎5万2000石に転じ、1704年に7万2000石へ。その後、越後村上を経て、1717年に高崎に戻り、1730年に老中格となった。1779年に輝高のときに8万2000石となった。以後、輝高、輝延も老中となった。明治時代には子爵。【出典

・ 三河国幡豆郡寺津・江原両郷(愛知県西尾市)を領し、秀綱のときに徳川家康に仕え、関東入国の際に武蔵国高麗郡を領した。信綱は徳川家光に仕えて老中を務めた。武蔵国忍藩3万石を経て、島原の乱後に、1639年に武蔵国川越6万石へ。信綱の五男の信興が高崎藩主の祖となった。信興は徳川家綱の小姓組番頭から、1679年に若年寄になって大名となり1672年に常陸国土浦2万2000石。のちに、3万2000石。輝貞が1692年に下野国壬生を経て、1695年に上野国高崎5万2000石に転封。1704年に7万2000石に加増。その後、越後国村上を経て、1717年に高崎に戻り、その後老中格となった。1779年に輝高のときに8万2000石へ。明治時代には子爵。【出典

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