徳川家の人々
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■ 「徳川」の名字の由来

■ 徳川家

■ 徳川家定 ・ 徳川家茂 ・ 徳川家康 ・ 徳川秀忠 ・ 徳川家光 ・ 徳川綱吉 ・ 徳川吉宗 ・ 徳川家斉 ・ 徳川慶喜 ・ 徳川忠長 ・ 徳川斉昭 ・ 徳川宗春 ・ 徳川重倫

■ 徳川昭武(とくがわあきたけ)

・ 1853−1910年。徳川斉昭の十八男。徳川慶喜の異母弟。尊皇攘夷派による禁門の変、天狗党の乱では12歳で出陣した。15歳の時に慶喜の代理で、パリ万博に渡仏した。パリでの留学後、最後の水戸藩主になった。【出典

■ 徳川家綱(とくがわいえつな)

・  四代将軍家綱の生母の父親は旗本に仕えた下級武士。しかし、使い込みで死罪となり、母子は無料奉仕する「奴(やっこ)」として、下総国古河藩主永井家に下げ渡された。その後、母親が永井家の元家臣だった古着屋と再婚し、娘に「お蘭」が古着屋の店番をしていたとき、前を通りかかった「春日局」に見いだされて大奥に上った。

・ 徳川家綱(とくがわいえつな): 1641−1680年。江戸幕府の四代将軍で、三代将軍の徳川家光の嫡男。家光の逝去によって11歳で将軍になった。保科正之ら、家光の代からの遺老に補佐された。江戸幕府体制が整い、武断政治から文治政治への基礎が確立された。【出典

■ 徳川家宣(とくがわいえのぶ): 1662ー1712年。江戸幕府の六代将軍。徳川家光の三男の甲府藩主の徳川綱重の長男。綱吉の養子になって、48歳で将軍についた。柳沢吉保を退け、新井白石らを登用したが、在職3年で死去した。【出典
・ 六代将軍家宣の祖母も「玉の輿」か?母親のお夏の方(順性院)は京の町娘だったが、順性院が生んだ綱重は甲斐国甲府藩主となり、家宣は綱重の嫡男。

■ 徳川家継(とくがわいえつぐ): 1709−1716年。江戸幕府の七代将軍。六代将軍の家宣の四男。他の嫡子はみな早世した。家宣の死去によって5歳で将軍になった。家宣は世継ぎについて新井白石に相談していたが、混乱をさけるために幼少ではあるが家継を継がせた。政務は引き続いて間部詮房新井白石の改革を遂行した。家継はわずか8歳で病没した。【出典

■ 徳川家重(とくがわいえしげ): 1711−1761年。江戸幕府の九代将軍。八代将軍吉宗の長男。言語不明瞭で、脳性麻痺ではなかったかと推察されている。側用人の大岡忠光を頼り、大奥に籠もりがちで、病弱だった。吉宗が当初は実権をもっていおり、政治は安定していたが、増税や凶作のため一揆が多発した。【出典

■ 徳川家治(とくがわいえはる): 1737−1786年。江戸幕府の十代将軍。九代将軍家重の嫡男。祖父の吉宗から期待された。父家重の隠居によって将軍につき、田沼意次や松平武元らを重用した。干拓事業や通貨制度改革を進めたが政治腐敗も生じた。やがて、趣味に没頭して政治から遠ざかった。【出典

■ 徳川家慶(とくがわいえよし): 1793−1853年。江戸幕府の十二代将軍。十一代将軍の家斉の次男。兄が早世したため、45歳で将軍職についた。家斉の死後、家斉派を除き、水野忠邦を重用して「天保の改革」を行わせた。緊縮財政と言論弾圧を行ったが、上知令(あげちれい)などで猛反発を受けて失敗した。阿部正弘を登用したが、急死した。【出典

■ 徳川家達(とくがわいえさと)

・ 1863年〜1940年
・ 徳川慶喜の大政奉還後に、徳川宗家を継いだ。御三卿の一つの田安慶頼の第三子で田安亀之助といった。1868年に静岡藩主(70万石)。

■ 徳川重好(とくがわしげよし): 1745−1795年。徳川御三卿の一つで、清水徳川家の初代。九代将軍家重の次男。3万石と江戸城清水門内に屋敷を賜った。死後、嫡子がなく、清水徳川家は断絶と再興を繰り返した。【出典

■ 徳川忠長(とくがわただなが)

・ 駿河大納言の徳川忠長は二代将軍の徳川秀忠お江与の方との間に生まれた。一時は兄の徳川家光を差し置いて将軍の目もあったが、春日局の力で徳川家光に決定したという。忠長は13歳の時に甲斐国20万石を得て、1624年には信濃・駿河・遠江を加増されて55万石を領し、駿府城主となった。徳川秀忠の死後、忠長を将軍にと言う謀議が露見し、徳川家光は忠長を上野国高崎城に幽閉し、所領を没収した。

・ 徳川一族で改易された最大のものは、寛永9年(1632年)に蟄居改易された駿河大納言の徳川忠長である。二代将軍の徳川秀忠の御台所は、浅井三姉妹の末っ子の「江(ごう)」だが、徳川家康は三姉妹が手を結んで徳川と豊臣を融和させることを警戒して、江の長女である千姫が豊臣秀頼に輿入れしたときも、伏見で見送らせて茶々との姉妹対面を避けさせた。また、三代将軍家光の乳母に小早川秀秋家老だった稲葉正成の妻のお福(春日局)を当て、江を牽制した。しかし、次男の忠長のほうが、利発で両親からかわいがられ、一時は将軍になるとも言われた。家光はパッとはしなかったが、廃嫡にするほどのことでもなかったので、三代将軍になったが、若い頃から女嫌いで、もっぱら男色にふけったので、四代将軍が生まれたのは家光が38歳のときだった。秀忠は、家光に子がなければ跡目を忠長にしたかったので、忠長には御三家よりも上の格式と実力をあたえようと、駿府55万石で大納言とした。しかし、忠長は増長して、秀忠に手紙を書いて「100万石か大坂城が欲しい」と、言ったとも言われ、副将軍的な扱いを求めたとも言う。一方、家光も秀忠の上洛時に、忠長が大井川などに船をつなげた橋を臨時に架けたことすら大御所様の考えに反していると言いがかりをつけるなどの嫌がらせをした。このころになると、忠長には癇癪を起こして小姓を斬ったとか、侍女に酒を強いて殺したとか奇行が目立った。結局、忠長は切腹となった。【出典

■ 徳川義直(とくがわよしなお): 1601−1650年。徳川家康の九男。御三家筆頭の尾張徳川家(尾張藩)の初代。大坂冬の陣(大坂の陣)で初陣を飾り、大坂夏の陣(大坂の陣)では後詰めとして奮戦した。1616年に尾張国に入国。新田開発や税制改革を行った。三代将軍家光と対立したと言われる。【出典

■ 徳川宗武(とくがわむねたけ): 1716−1771年。徳川御三卿の一つ。田安徳川家の初代。八代将軍吉宗の次男。学問を好み、賀茂真淵に師事した。将軍後継者と推す者もあった。1731年に、江戸城田安門内に屋敷を賜った。松平定信は子。【出典

■ 徳川宗尹(とくがわむねただ): 1721−1765年。徳川御三卿の一つ。一橋徳川家の初代。八代将軍吉宗の四男。十一代将軍家斉の祖父。1735年に、3万石と江戸城一橋門内に屋敷を賜った。十二代家慶は曽孫。【出典

■ 徳川宗春(とくがわむねはる): 尾張藩の七代藩主。39人兄妹の34番目。1730年に尾張藩61万9500石を継いだ。 

■ 徳川慶勝(とくがわよしかつ): 1824−1883年。尾張藩の十四代・十七代藩主。父親は支藩の高須藩主の松平義建(よしたつ)。弟の徳川茂徳(もちなが)、松平容保松平定敬(さだあき)と共に徳川慶喜の従兄弟で「高須四兄弟」と言われた。藩政改革に取り組んで、人事、財政、海防面で成果をあげた。条約勅許問題で井伊直弼に抗議して、幽閉された。許された後には、徳川家茂の補佐役をつとめた。禁門の変では、幕府から長州征伐の命を受けた。公武合体を志して、王政復古を主張。大政奉還に尽力した。明治政府では議定職となり、名古屋藩知事を務めた。【出典

■ 徳川頼宣(とくがわよりのぶ): 1602−1671年。徳川家康の十男。御三家の紀州徳川家(紀州藩)の初代。大坂冬の陣(大坂の陣)で初陣を飾り、1619年に紀州藩55万5000石の初代藩主になった。土木工事などの施策で紀州藩の繁栄の礎を築いた。慶安の変で由井正雪と関係したとの疑いをかけられ、10年間江戸から国元に戻れなかった。【出典

■ 徳川頼房(とくがわよりふさ): 1603−1661年。徳川家康の十一男。御三家の水戸徳川家(水戸藩)の初代。7歳のときに水戸藩25万石の藩主になった。学問を奨励して、領内整備に力を入れ水戸藩の礎を築いた。死の直前、子の光圀に家来の殉死を禁じる遺言を残した。これが家綱に伝えられ、殉死禁止令が出された。【出典


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