鳥取県の戦国史
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■ 鳥取県の戦国史

# 室町時代、因幡国伯耆国守護山名氏が務めており、応仁の乱では山名持豊が西軍の総帥として両国内の武士を動員して、京に出陣した。決着がつかないまま両軍の総帥が死去、騒乱が地方に広がって山名氏は次第に衰退した。【出典

# 因幡国では、国衆毛利氏(安芸毛利氏とは別)が台頭、貞元(次郎)は赤松氏の支援を得て、守護山名氏に叛乱を起こした。二度にわたる叛乱は守護方が勝利して、貞元が自刃して鎮圧されたが、以後は守護の山名氏は弱体化して、国衆層による騒乱が続いた。【出典

# 伯耆国では、守護山名氏の相続争いが起こり、出雲国の守護の尼子経久の支援を得た山名澄之が守護職を継いだ。しかし、これを機に尼子氏は伯耆国西部にも勢力を伸ばした。【出典

# 天文7年(1538年)頃には因幡国の山名誠通が尼子氏に降り、経久の跡を継いだ晴久は伯耆国・因幡国の守護も兼ねて、山陰地方一帯を支配する大大名になった。その後、伯耆国東部では南条氏が台頭して、これを毛利元就が支援して、毛利氏が伯耆国に進出した。【出典

# 因幡国では、永禄年間に鳥取城の武田高信が毛利氏の支援を得て山名氏から離れて自立し、永禄6年(1563年)には山名豊数を布施天神山城から追って、因幡国の大半を支配した。翌年には、毛利氏が伯耆国に進出して、尼子氏を降して山陰地方を制圧した。【出典

# 天正8年(1580年)に、豊臣秀吉但馬国の出石城の山名宗家を滅ぼすと、武田氏の没落後には鳥取城主になっていた一族の山名豊国は豊臣秀吉に通じたが、毛利方の吉川元春の意向をくんだ家臣によって城を追放され大名としての山名氏は滅亡した。しかし、毛利方の吉川経家の支援を得た鳥取城も秀吉によって落城し、因幡国・伯耆国は秀吉の支配下になった。【出典

戦国時代とは

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