神奈川県内の「大久保」の名字の詳細
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■ 大久保(おおくぼ): 神奈川県の大久保家 

# 神奈川県の大久保家: 小田原藩主下野国那須郡大久保(栃木県大田原市大久保)をルーツとし、宇都宮氏の一族。三河国に転じて松平氏に仕えた。相模国の小田原藩の大久保家(11万3千石)は、天下の御意見番の大久保彦左衛門の一族。

・ 小田原藩主。下野国那須郡大久保(栃木県大田原市大久保)をルーツとし、宇都宮氏の一族。南北朝時代に泰藤が三河国に来住したのが祖という。忠世は徳川家康に従い、1590年の関東入国の際に小田原城主として4万5000石を賜った。関ヶ原の合戦後も引き続き小田原藩6万5000石の藩主となり、1605年に秀忠が二代将軍に就任すると、老中となって大きな権力を持った。しかし、本多正信との確執から1614年に讒訴によっていったん改易となった。その後、忠職が武蔵私市藩2万石で再興、1632年に美濃加納5万石、1639年に播磨明石7万石を経て、1649年に肥前唐津8万3000石に入封した。さらに忠朝は1677年に老中となって、翌年下総佐倉8万3000石に転じ、1686年に小田原10万3000石に戻った。幕末、忠礼は幕府から箱根関所の守備を命じられたが、新政府軍が到着すると箱根関所を明け渡して合流している。しかし、幕府の遊撃隊に攻撃されると佐幕に転じ、その後再び勤王に戻るなど揺れ動き、1868年には3万8000石を削られ、7万5000石となった。明治時代には子爵。【出典

# 神奈川県の大久保家: 荻野山中藩(神奈川県厚木市)藩主。小田原藩主の大久保忠朝の二男の教寛が、1698年に6000石を分知されたのが祖。1706年に西の丸若年寄となって5000石を加増され諸侯に列し、駿河松長藩を立藩。1709年には本丸若年寄になって、1718年には相模国で5000石を加増された。1783年に教翅(のりのぶ)の時に相模国愛甲郡荻野(神奈川県厚木市)に陣屋をおいて、荻野中山藩1万3000石となった。明治時代には子爵。【出典】 

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