東京都の戦国史 | |
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■ 東京都の戦国史
# 永享11年(1439年)の永享の乱で、鎌倉公方の足利持氏が自害すると、扇谷上杉氏は家宰の太田道灌に江戸・岩村・河越の三城を築かせるなど武蔵国に大きな勢力を持った。文明8年(1476年)に山内上杉氏の重臣の長尾景春が上杉顕定に叛乱すると、扇谷上杉氏の重臣だった豊島泰経・泰明兄弟も太田道灌の勢力伸長に反発して挙兵した。しかし、道灌によって石神井城を落とされて敗走、小机城に逃れたがここも落城して豊臣氏は滅亡した。しかし、文明18年に扇谷上杉定正は家宰の太田道灌を誅殺、これを機に山内家との激しい戦いが続いた。これを長享の大乱という。【出典】
# 大永4年(1524年)に北条氏綱が武蔵国に侵攻、扇谷家の上杉朝興は江戸城を捨てて河越城に逃れた。以後、北条氏は武蔵国南東部の荏原郡と豊島郡を支配下において、武蔵国南部の諸氏を傘下に組み込んだ。さらに三代氏康は、天文15年(1546年)の河越夜戦で扇谷上杉朝定を敗死させ、上杉憲政を越後国に追って北関東まで支配した。【出典】
# 当時の武蔵国多摩郡では滝山城(東京都八王子市)の大石氏と勝沼城(青梅市)の三田氏の力が強く、とくに大石氏は山内上杉氏のもとで守護代をつとめていた他、葛西城(東京都葛飾区)にも分家を出した。【出典】
# 河越夜戦後に、大石氏が北条氏に降る一方、三田氏は越後国から関東入りした上杉謙信に従って北条氏を攻めたものの、北条氏が小田原城に籠城したため攻めきれず、謙信の帰国後に北条氏によって滅ぼされた。【出典】
# 武蔵国を所領に加えた北条氏は、江戸城と滝山城を拠点とした。江戸城の筆頭は遠山氏で、滝山城には三代氏康の三男の氏照が入って、現在の東京都域を支配した。【出典】
# 天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が敗れると、代わって徳川家康が関東に入国して、江戸城を拡充して240万石の大大名になった。【出典】
【戦国時代とは】