太田道灌
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■ 太田道灌(おおたどうかん): 「太田」の名字の由来

# 1432〜1486年。江戸城を築いた名将で太田資長(すけなが)のこと、扇谷上杉家家宰享徳の乱に参戦し、長尾景春の乱では景春を敗走させた。また千葉氏を牽制するために江戸城を築いた。【出典

# 文明8年(1476年)に、駿河国守護の今川義忠が死亡し、小鹿範満(おしかのりみつ)と竜王丸(後の今川氏親)が家督を争う事態になった。今川家と関東との歴史的関係を考えると、駿河国の政情不安は管領上杉氏にとって見過ごせない問題だった。堀越公方の足利政知の要請を受けた管領の山内顕定は、扇谷家の当主の定正と諮って、太田道灌を駿河国に派遣することを決めた。太田道灌は、最初に相模国に逃れていた範満と合流して6月には駿河国に入った。しかし、武蔵国の鉢形城にあった景春は、太田道灌の不在をついて挙兵した。太田道灌は範満を今川家の家督につけて3ヶ月ほどで内紛をおさめて、10月には江戸城に戻った。【出典

■ 太田資正(おおたすけまさ): 1522〜1591年。北条氏と戦い続けた武将で、太田道灌の曾孫。北条氏と対立し、上杉謙信の小田原侵攻にも参戦した。常陸国佐竹義重の配下になって、片野城の城主になった。【出典】 


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