享徳の乱
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■ 享徳の乱(きょうとくのらん)

# 享徳3年(1454年)に、鎌倉公方の足利成氏と関東管領の山内上杉憲忠(のりただ)が対立して、憲忠を謀殺した成氏が、武蔵国の分倍河原で関東管領軍を破り、下総国の古河に拠ったため、古河公方と言われるようになった。足利成氏を支持したのは結城氏・簗田氏・小山氏・小田氏・宇都宮氏などの常陸国・下総国の有力国衆が多く、また上杉氏の宗家となっていた山内上杉家が上野国・武蔵国の、そして有力庶家の扇谷上杉家が相模国の守護をつとめていたことによる。さらに、下総国古河は、江戸湾から利根川に通じる水上交通の要所であった。成氏は、奉公衆(直属軍)の有力武将であった武田信長を上総国に、里見義実を安房国に配して、江戸湾の海上交通路を東側から押さえようとした。結果として、関東地方は利根川を挟んで、古河公方と関東管領の上杉家とに勢力が二分された。【出典】  

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