千葉県の戦国史
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■ 千葉県の戦国史

# 15世紀後半の享徳の大乱で、千葉氏嫡流の胤直・宣胤父子が山内上杉氏につく一方、庶流の馬加康胤は古河公方の足利成氏に属して対立した。康正元年(1455年)に康胤が胤直父子を討って千葉宗家が滅亡した。山内上杉氏の上杉房顕は、胤直の甥にあたる実胤・自胤兄弟を擁立、実胤は武蔵国の石浜城、自胤は武蔵国の赤塚城(東京都板橋区)に転じ、以後武蔵国の千葉氏になった。新たに嫡流の地位についた康胤の家系は、のちに本拠地を交通の要衝である本佐倉城(千葉県酒々井町)に転じ、胤富の頃には最盛期を迎えた。【出典

# 上総国には古河公方の足利成氏の命で康正2年(1456年)に武田信満の二男の信長が入部した。やがて真里谷城(千葉県木更津市)と庁南城(千葉県長生郡長南町)の二家に分裂した。さらに、安房では里見氏が台頭したが、初期の里見氏については不詳。【出典

# 永正年間になると相模国三浦道寸上総国に侵入した。永正13年(1516年)には北条早雲が三浦道寸を滅ぼして上総国に侵攻した。真里谷武田氏は北条早雲の支援を得て古河公方足利政氏の二男の義明を下総国小弓(千葉市)に招聘し、小弓公方として擁立。南関東諸氏の統合の象徴として古河公方と対立した。【出典

# 安房国では、里見氏庶流の義堯が北条氏と結ぶと、嫡流の義豊は真理谷武田氏と結んで内訌となり、天文3年(1534年)に義堯が里見氏を統一、館山城(千葉県館山市)を築いた。以後、上総国・下総国にも進出したが、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で北条氏康に大敗して衰退した。さらに天正13年(1585年)には千葉邦胤が家臣に殺されて事実上滅亡した。【出典

# その後、豊臣秀吉による惣無事令が出されると、里見義頼は秀吉から独立した大名として認められ、安房一国と上総南部が領国と定められた。天正18年(1590年)には北条氏が秀吉に敗れて滅亡、安房以外は江戸入りした徳川家康の所領になった。【出典】 

戦国時代とは

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