「相去」の地名の由来 | |
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■ 相去(あいさり): 岩手県北上市相去町
# 北上盆地の中央部、北上川とその支流和賀川との合流点の南方に位置する。
# 相去: 南北朝から陸奥国江刺郡にみられた地名。会佐利とも記す。当地は和賀氏の本領にはあらず、江刺郡地頭の葛西氏が本来の領主であったと推定される。【出典】
# 相去: 二つの川の合流地点が崩れた崖地になっているところ。【出典】
# 相去(あいさり): 盛岡藩と仙台藩の境界がはっきりせず、両藩の藩主が競争で決着をつけようとした。しかし、書状の解釈でもめて、結局、両者が「相って去った」ことに由来する。【出典】
※ たしか、競争、仙台藩は馬で盛岡藩は牛で競争してもめたんじゃなかったかなぁ?
# 寛永年間に、南部藩と伊達藩の領地の境目をはっきりさせようと、両藩の藩主が申し合わせたが、書状の解釈で揉めて両者が「相去(あいさ)って」地名となったという。【出典】
# 相去(あいさり): 寛永年間に、岩手県の江刺・胆沢両郡が伊達政宗の領地に、和賀郡以北が南部利直の領地と定められたが、どうもその境界が曖昧だった。境目をはっきりしようと、伊達の殿から南部の殿に申し入れがあった。「双方が、同日同時刻に、午にのってお城を出て、出会ったところを境にしよう」という提案である。実際に落ち合ったのは「鬼柳」と「相去」の境であった。これは、伊達家にとって有利な結果だった。なぜならば、南部侯は「牛」に乗ってきたにもかかわらず、伊達侯は「馬」に乗ってやってきた結果であった。これは話が違うと南部侯が言ったが、そんなことはあるまい。わしの手紙をとくとご覧あれと伊達侯は答えた。手紙をよくみると、「乗り物は午」と書いてある。干支の「午」を、南部侯は「牛」と読み違えたのであった。結局、伊達侯と南部侯はここを「相去って」、「相去」という地名が生まれた。【出典】