松平直矩 | |
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■ 松平直矩(なおのり)
# 引っ越し大名: 松平直矩(なおのり)【出典:大名の『お引っ越し』は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎 山本博文 (じっぴコンパクト新書)】
・ 1642年(寛永19年)に、越前大野藩主の松平直基(なおもと)の長男として生まれた。
・ 1644年に、越前大野藩から出羽山形藩へ転封。
・ 1648年(慶安元年)に、播磨姫路藩に転封。この転封の途中で父の直基が死去のため、藩主を引き継いだ。
・ 1649年に、越後村上藩へ転封。
・ 1667年に、播磨姫路藩へ転封。15万石。
・ 1682年(天和2年)に、豊後日田藩へ転封。7万石。
・ 1686年(貞享3年)に、出羽山形藩に転封。10万石。
・ 1692年(元禄5年)に、陸奥白河藩に転封。15万石。
・ 1695年(元禄8年)に、54才で死去。
# 松平直矩(まつだいらなおのり): 江戸時代の姫路城主は31にものぼる。そのなかで、福井の結城秀康の孫にあたる松平大和守直矩は2回つとめた。しかも、直矩は「引っ越し大名」といわれ、一生のうちに2度つとめて「引っ越し大名」といわれ、7回の転封を経験した。生まれたのは父親の直基(なおもと)が越前国の大野藩5万石だった時だが、父親は出羽国の山形藩15万石、播磨国の姫路藩主と転封を繰り返した。しかし、父親が急死したときに直矩は7歳だったので、西国探題というべき役目は無理だとして、越後国の村上藩に転封された。その後、姫路藩に復帰したが、従兄弟で越後国の高田藩主の松平光長が改易された越後騒動のとばっちりで「分家なのに傍観していた」と幽閉させられ、豊後国の日田藩7万石に移された。2年後には山形に10万石で戻り、その6年後には陸奥国の白河藩15万石に転封した。子孫は、姫路、前橋と転封されたが、前橋城が利根川の洪水で壊れたので、領内の武蔵国の川越に転じ、幕末には軍事的な要衝である前橋城を再構築した。【出典】
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