広島県内の「毛利」の名字の詳細
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■ 毛利(もうり): 広島県の毛利家 

# 広島県の毛利家: 安芸国の戦国大名大江広元の四男の季光が、父から相模国愛甲郡毛利荘(神奈川県厚木市周辺)の地頭職を譲られて毛利氏を称したのが祖。1247年の宝治合戦では、三浦氏の縁戚であったことから一族をあげて三浦氏に与して敗れ、毛利荘を没収された。しかし、四男の経光は越後刈羽郡佐橋荘(新潟県柏崎市)に赴いていたことから乱には参加せず、同荘と安芸国高田郡吉田荘(広島県安芸高田市吉田町)の地頭職は安堵され、本拠地を佐橋荘に移した。1270年に経光は佐橋荘を南北に分割し、佐橋北荘を惣領の基親に、佐橋南荘と安芸吉田荘を四男の時親に譲った。時親は六波羅探題評定衆をつとめ、その後吉田荘に移った。1523年に南下してきた尼子氏に降ってその先鋒として銀山城の武田氏を討ったが、直後に9歳の当主幸松丸が死去、叔父に当たる元就が毛利氏を継いだ。元就は尼子氏から独立すると、松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)と藤掛城(島根県邑智郡邑南町)にいた、高橋父子を討って、安芸の有力国衆となった。1541年には安芸に再侵攻してきた尼子氏を退けると、1555年には厳島陶晴賢を破って一躍長門・周防・安芸・備後・石見の五カ国を支配する戦国大名に成長、さらに1566年には尼子氏を滅ぼして中国地方十カ国を支配した。孫の輝元は織田信長と対立、1582年には備中高松城で羽柴秀吉と対峙したが、信長の急死で講和を結び、秀吉政権下では五大老の一人となり、安芸広島で120万石の大身となった。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となったため、長門萩36万9000石に減知された。【出典

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