新潟県の戦国史
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■ 新潟県の戦国史

# 室町時代の越後国は、守護上杉氏守護代長尾氏によって治められていた。しかし、応仁の乱の後に守護の上杉房能は直接支配を強化して、これによって守護代の長尾能景や国衆勢との間に軋轢が生じた。永正6年(1506年)に越中国の守護の畠山尚順の要請で越中国に出陣した長尾能景が討ち死にすると、上杉房能は跡を継いだ長尾為景を攻撃した。しかし、反撃した為景に敗れて自害し、以後は長い戦乱となった。上杉房能に勝った長尾為景は房能の養子の定実を守護として擁立、これに反発して挙兵した阿賀北衆を討った。これを永正の乱という。その後、房能の兄である関東管領上杉顕定が管領軍を率いて越後国に侵攻、阿賀北衆の支援を得て一旦は越後国を支配したが、越中国に逃れていた為景は定実とともに反撃して、顕定を討って越後国を取り戻した。【出典

# その後、今度は長尾為景と上杉定実が対立、定実は宇佐美房忠とともに挙兵したものの、阿賀北衆を味方につけた長尾為景が勝ち、以後為景は直接足利将軍家と結んで事実上の国主として支配するようになった。【出典

# 享禄3年(1530年)には上杉氏の一族の上杉定憲が旧上杉勢力を結集して上条城(新潟県柏崎市)で再起、長尾為景と争った。これを天文の大乱という。この戦いは天文5年(1536年)に為景が死去したことで決着がつかないまま終息した。【出典

# しかし、長尾為景の跡を継いだ長男の晴景が病弱であったため、今度は国人たちが従わなくなり、国内はふたたび乱れた。そこで、天文17年に二男の景虎が兄に代わって長尾家の家督を継ぎ、天文19年に守護の上杉定実が跡継ぎのないまま死去すると、景虎は将軍の足利義輝から越後国の国主として認められ、一族の坂戸長尾家や北条城主の北条氏を討って越後国を統一した。さらに上杉憲政から上杉家の家督も譲られて上杉謙信と号し、戦国大名の上杉家となった。謙信の没後、養子の景勝と景虎の間で後継者争いが生じた。これを御館の乱という。勝利した景勝は豊臣政権下で五大老の一人となり、会津若松120万石に転じた。【出典

戦国時代とは

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