茨城県の戦国史
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu  
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 茨城県の戦国史

# 茨城県では北部を鎌倉時代以来の守護大名佐竹氏が支配した。南東部は常陸平氏と呼ばれた大掾氏の一族が割拠、南西部には小田氏結城氏が勢力を持った。さらに足利成氏が古河に移り済んで古河公方になり、周辺の諸氏を臣従させた。佐竹氏は有力一族である山入氏との抗争が長期化し、さらに小田氏も内訌が続いた。【出典

# 天文15年(1546年)に古河公方の足利晴氏が山内・扇谷の両上杉氏とともに武蔵国河越で北条氏方の北条綱成と対戦して大敗(河越夜戦)、以後は常陸国にも相模国の北条氏の力が浸透してくるようになった。そのなかで、結城政勝・晴朝父子が北条氏康に接近、弘治2年(1556年)に結城氏は北条氏の支援を得て小田氏を討ち、小田氏治を追放した。【出典

# 佐竹氏は山入氏との内訌を収束させ、次第に力を蓄えて陸奥国に侵攻、陸奥国南部の一部を支配下にいれた。永禄3年(1560年)には佐竹義昭は越後国の守護代の長尾景虎(上杉謙信)に関東出陣を要請して北条氏を小田原に押し戻し、永禄12年(1569年)には小田領を回復していた小田氏を滅ぼした。【出典

# 佐竹氏と結んでいた常陸国水戸の江戸氏は、鹿島郡に勢力を拡大していたが、重臣の神生氏の叛乱を機に没落、佐竹義宣真壁氏を支配下に組み込んで、さらに南西部で独立していた多賀谷重経には弟の宣永を養子にして送り込んで、常陸国の大半を支配した。【出典

# 天正18年(1590年)に豊臣秀吉小田原攻め佐竹義宣が参陣して所領が安堵される一方、水戸城の江戸重通は参陣しなかったため佐竹義宣に攻められて敗れ、結城氏のもとに逃れた。翌年、佐竹義宣は鹿島・行方二郡に割拠していた大掾氏の一族の諸氏を謀殺して、豊臣大名として常陸国一国を支配し水戸城に転じた。【出典】 

戦国時代とは

統計表示