北海道内の「蠣崎」の名字の詳細
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■ 蠣崎(かきざき): 北海道の蠣崎家

# 北海道の蠣崎家: 松前の戦国大名陸奥国田名部蠣崎(青森県むつ市)をルーツとし、清和源氏の若狭武田氏庶流と言われるが不詳江戸時代には松前藩主となり、松前氏を称した。【出典

・ 陸奥国蠣崎(青森県むつ市)から渡島半島に転じた。主流は後に松前氏を称し、分家の多くは蠣崎氏を称した。【出典

・ 蝦夷の戦国大名清和源氏の若狭国の武田氏の一族と言うが不詳。家譜によると、若狭武田氏の国信の子の信広が陸奥国田名郡蠣崎(青森県むつ市川内町)に移り住んで蠣崎氏を称したのが祖。1454年に蝦夷に渡って安東氏に属し、花沢館にいた同族の蠣崎季繁の客将となったと伝える。しかし、若狭国の武田氏の系図には信広の名は無い。また、南部氏の一族が蝦夷地に渡って蠣崎氏になったとも、陸奥国の蠣崎村の土豪の蠣崎氏が南部氏と対立し、蝦夷に渡ったともいう。いずれにせよ、1457年にコシャマインの蜂起がおこった際に、信広は道南地区にあった館主の総大将としてこれを平定し、やがて季繁の娘婿となって蠣崎氏を継ぐと、館主層を次々と被官化したとみられる。信広の子の光広は1514年に大館に転じ、以後は実質的に松前を支配した。1590年に慶広は豊臣秀吉に謁して諸侯に列し、1593年には蝦夷地全体の支配を認知された。1599年に宗家は松前氏改称し、分家だけが蠣崎氏を称した。【出典

# 北海道の蠣崎家: 松前藩主松前家の分家。戦国大名の蠣崎氏は江戸時代には松前家と改称したが、分家は蠣崎氏を称した。12代藩主の資広の五男から蠣崎家を継いで画家・漢詩人として知られた蠣崎波響が著名。わずか18歳で家老を務め、江戸で画を学び「松前の応挙」とも呼ばれた。【出典】 

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