| 「小笠原諸島」の地名の由来 | |
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■ 小笠原諸島: 東京都
1593年に信州深志城主の小笠原貞頼が発見したからと言われていたが、何故この時期信州の城主が小笠原(太平洋)に船を出したのかという疑問で、まゆづばものか?
※ 小笠原という地名は、1593年に信州深志城主の小笠原定頼が発見したことに由来するといわれているが記録には残っていない。
# 一番古い記録は、1639年にオランダが発見した記録。
日本人による最古の発見記録は、1670年に紀州から江戸に向かう船が難破し、無人島に上陸。その報告をうけた幕府が1674年に調査団を派遣して島を発見して無人島と名付け、日本の領土としたが実効支配はしていなかった。その後19世紀に小笠原諸島周辺に欧米の捕鯨船がやってきて1823年にアメリカの捕鯨船がこの島を発見し船長の名前をつけた。しかし、幕府は何もしなかった。
その後イギリスの測量船が上陸し、無人島をイギリス領だと宣言したが、この時も幕府は何もしなかった。1853年にペリーが浦賀に来る前に父島に上陸し貯炭所をつくるが、イギリスともめて、ペリーは無人島は日本が発見したと主張し英米間の領有権争いはうやむやになった。
1861年にようやく幕府が日本の領土と主張し、外国奉行を派遣し無人島から小笠原嶋に改称。
アメリカ公使ハリスやアメリカ人島民も、これを了承した。しかしイギリスの駐日公使が異議を唱えたが、強くは反対しなかった。その後、太平洋戦争後アメリカの領土となったが、1968年に日本に返還。
・ 日本地図のおもしろい読み方より
# 小笠原諸島は、約30の島々からなり、聟島列島、父島列島、母島列島からなる小笠原群島。硫黄島などからなる硫黄列島、西之島。そして南鳥島、沖ノ鳥島からなる。【出典】
# 無人岩(むにんがん、ぶにんがん): マグネシウムの含有量の多い、特殊な火山岩で、ボニナイトの名称で世界的に知られる。無人岩は、小笠原の古名である無人島に由来する。【出典】
# 小笠原諸島は、夏に晴天をもたらす小笠原高気圧(北太平洋高気圧)に覆われて海洋性熱帯気団の支配下にあり、高温湿潤な気候になる。また、冬はユーラシア大陸から吹き出してくる大陸性寒帯気団の変質した末端付近に位置し、寒さは本州にくらべて弱い。【出典】
# 小笠原諸島の水量について
・ 人は1日あたり「どれくらいの水を使えれば必要十分なのか: 小笠原で降雨が多いのは、梅雨の5月と、秋の台風シーズン。人口約2000人の父島におがさわら丸で600人の観光客が来訪すると、その来訪期間には使用水量が増える。【出典】
# 大航海時代から江戸幕府探検隊まで
・ 17世紀にはいると、タスマニアを発見したタスマンとクワストのオランダ艦隊が、1639年に小笠原を望見したといわれている。18世紀にはキャプテン・クックの英国艦隊も、クックがハワイで不慮の死をとげたあとの1779年に小笠原の島々を望見・命名したという。【出典】
・ 1670年(寛文10年)に、阿波国の蜜柑船が遠州灘で遭難した。漂着したのが、今日の母島と推定される。彼らは、船頭を失なったが八丈島経由で帰還し、巽(たつみ)の方角にある無人の島のことを役所に届け出た。そこで、幕府は、長崎代官の末次平蔵に命じて、1675年(延宝3年)に島谷市左衛門を隊長として、32名からなる探検隊をこの「人無き島」に派遣した。この探検には唐船(とうせん)とよばれる500石積みの外洋船が使用された。この探検隊は日本領を示す標柱を立て、神社を作り、鶏を放ち、測量した地図・海図と博物標本多数を持ち帰って幕府に提出した。そこで、幕府は、この諸島を総称して無人島(ムジントウ・ムニントウ)と命名した。【出典】
# 1728年(享保13年)の小笠原一門を自称する牢人の、小笠原貞任が、「無人島はわが祖先の貞頼が発見し、家康公から賜った領地です」と、幕府に渡島許可を願い出る一件が勃発。貞任は著者不明の「巽(たつみ)無人島記」をその証拠として提出したが、そこに丸く描かれた「父島」は横26里、長さ90里と台湾くらいの大きな島だった。別途差し出した「覚(おぼえ)」には「おっとせい多く島より島へおよぎ渡る」とあり、とても亜熱帯の島とは思われない。こうした内容から、「信憑性は問題外」との指摘がある。小笠原宗家による家系図調査が小笠原貞頼の存在を否定したこともあり、1735年(享保20年)になって小笠原貞任は幕府によって重追放の刑に処せられたが、この事件が、のちに紹介するように、幕末の国際関係の中で「小笠原」と呼び換えられる遠因になった。父島、母島、兄島などの名称も、小笠原貞任が幕府に出した書類で使用されたのが最初とされる。【出典】
※ 「信憑性は問題外」とされたが、提出した書類の内容「父島、母島、兄島」だけ、現代に引き継がれている不思議。
# 19世紀の小笠原
・ 1827年(文政10年)に、英国海軍の測量艦のブロッサム号が、小笠原に来航。
・ 1828年(文政11年)に、ロシア海軍のリュトケ艦長が率いるセニャーヴィン号が小笠原の学術調査を行った。
# 最初の入植者
・ 1830年(文政13年)に、ハワイからナサニエル・セーボレーを含む欧米出身の5名とハワイ先住民の20数名の一行が、小笠原に入植した。【出典】
・ 1853年(嘉永6年)に、ペリーが浦賀に来航し、幕府に開国を迫ったが、この時にペリーは沖縄と小笠原にも寄港している。ペリーは小笠原の米領化をもくろみ、父島、清瀬に石炭備蓄基地用の土地をナサニエル・セーボレーから購入し、彼を行政長官に任命した。さらに母島でも米国領有を宣言した。こうした事実を知った英国政府は、折から香港に滞在中だったペリーのもとに現地の高官を送って、激しく抗議した。ペリーの来島の二ヶ月後には、ロシアのプチャーチン艦隊が父島の二見港に集結して、外交交渉のために長崎にむかった。【出典】
# 1858年(安政5年)の日米修好通商条約の締結によって開国となった。ペリーの公式報告の「日本遠征記」の小笠原に関する詳細も、日本語に翻訳されて幕府に届いた。幕府はムニンジマに外国人が入植している事実に驚いて、1862年(文久2年)に外国奉行の水野忠徳を乗せた、オランダ製の軍艦の咸臨丸を派遣することを決定した。水野隊は父島に到着すると礼砲と称して大砲を7発うって、入植者を説得して、小笠原の領有権を宣言した。【出典】
・ 幕府は、外国奉行の派遣に際し、各国政府に事前通告を行ったが、そこではじめて「小笠原」の名前を公的に使用した。小笠原の名前自体、民間にはそれなりに流布していたが、従来の「無人島」では外交的に話にならないとしたのか。かつては、事実に反すると裁定した小笠原貞頼の発見伝説を復活させ、外交に利用した。小笠原貞任がおそらく考案した父島・母島にはじまる家族を連想する島名も、このときに正式採用された。しかし、17世紀に小笠原を実地調査した長崎の末次平蔵や島谷市左衛門の功績は、思いおこされなかった。事前通告に対して、各国政府からの苦情もなく、小笠原は日本領として国際的に認知された。かくして幕府は、日本領になった小笠原に、咸臨丸の姉妹船の朝陽丸に乗艦させた八丈開拓団30数名を送った。その後、日本の小笠原領有は、1876年(明治9年)に国際社会が正式に認めた。【出典】
■ 「小笠原」の地名