「うらみ」の地名
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 地名の目次
   
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 占見(うらみ): 岡山県浅口市金光町占見。旧備中国浅口郡。里見川の左岸に位置する。南岸は古代は入江となっており、「和名抄」に見える占見郷の中心であったといわれ、大宮神社は浅口郡の一宮であった。地名は、昔占いで名高い平安中期の陰陽師安倍晴明が住んでいたことにちなむという説もあるが、当地付近まで海が入り込んでいたという地形的なことから、名付けられたものであろう。【出典

# 占見郷: 平安時代から備中国にみられた郷名。「和名抄」では備中国浅口郡八郷の1つ。高山寺本・東急本ともに「宇良見」の訓を付す。浅口郡のほぼ中央部に位置し、北側の遥照山と南側の竜王山とに挟まれて東流する里見川の沖積平野を中心とする。現在の金光町占見付近に比定されている。比定地内の金光町占見には、奈良期の寺院跡と推測される占見廃寺があり、礎石が確認されているほかに、唐草文軒平瓦や蓮華文軒丸瓦などが発見されている。郷域比定地の占見地域から西方の鴨方町鴨方(川村郷比定地)にかけては、かなり顕著で広範囲な条里制地割遺構が残存しており、またその地割は郷域の南端を流れる里見川の南方の佐方地域まで広がっており、この地方の開発の早さと生産力の高さがうかがえる。【出典

# 占見村: 江戸時代から明治時代中頃にかけて、備中国浅口郡にみられた村名。当初は毛利氏の支配地だったが、慶長11年には伊予今治藩領、寛永9年からは岡山藩領。明治時代には占見・占見新田・地頭下の3か村が合併して新占見村が成立。成立時の明治22年の人口は2,458人。【出典

※ この場合の「うらみ」は「浦見」なんでしょうねぇ。

■ 占見新田(うらみしんでん): 岡山県浅口市金光町占見新田。里見川の左岸に位置する。古代は入江となっていて遠浅の海岸であったという。地名は占見に開発された新田にちなみ、寛文10年に岡山藩によって開発され、寛文12年からは鴨方藩領。南を東流する里見川は天井川で、大雨が降ると洪水がよく発生したため寛政4年第1次の改修が行われた。これには流域の30か村が関係し、話し合いの結果川ざらえを行った。【出典

※ 里見川は昭和46〜47年頃にも堤防が決壊したそうです(現地情報)。

# 占見新田(明治中期以降): 大正8年に里見川の堤防がくずれ、当地が湖水化したため、同11年里見川の第2次改修が行われ、御影橋下流の曲流していた所をまっすぐ一本にし、川幅も広げられた。さらに、昭和8年から同11年にかけての第3次改修では、八重の東端から中新田までの河底を幅17mの直流に改めた。当時里見川沿いの国道も拡幅され、八重の東端から下流の河底は幅34mに改められた。同29年から第4次の改修がなされ、同37年には国道2号も南側の現在のルートで開通した。【出典

※ 「〜新田」という地名は多く存在しますが、多くは「〜さんが開拓した」ことに由来するようですが、この場合は本村に対する出村的な意味合いの新田のようですね。

■ 浦見(うらみ): 北海道釧路市浦見。旧釧路川下流左岸の釧路段丘西側。地名は,釧路湾・阿寒連峰を望む眺望地であることに、アイヌ語地名ウラリマイの語感を合わせたものと思われる。ウラリマイの地名は、アイヌ語のオラロマイ(深砂の所の意),あるいはウラリマイ(いつも露のかかる所の意)に由来する。一説には、「本名フウラマイなるよし。此処むかし悪病流行し人死した時に、其骸を爰に投捨置より、腐りて悪臭甚しかるゝによつて号しとかや」ともいう。【出典

■ 浦見川(うらみがわ): 福井県の三方五湖付近にある河川(運河)。浦見運河ともいう。三方五湖の水月(すいげつ)湖と久々子(くぐし)湖を結ぶ人工の川。かつて水月湖の水は東へあふれ、上瀬(うわせ)川を通って久々子湖に注いだが、寛文2年5月の地震で東岸が隆起し閉塞した。そのため三方湖・水月湖の水位は高まり、湖岸諸村は冠水した。小浜藩は三方奉行行方久兵衛らに命じてただちに開削に着手、浦見坂の岩を切り開く難工事で、沿岸住民の怨み川といわれたが、翌年5月に一応完成し、浸水の田地ももとに復した。同年6月からさらに拡幅工事を進め、久々子湖の水を外海に流す早瀬川の改修も行い、浦見川完成によって、三方湖・水月湖・久々子湖の水位が平準化されて、湖岸に新田が開発され、生倉(いくら)・成出(なるで)の新2村も誕生した。【出典

※ いやぁ、浦見という地名があって、偶然「怨み」と結びついたのか、それとも古来よりの災害で、住民の「怨み」が先にあって浦見という地名ができたのか?それにしても面白いですねぇ。

統計表示