栃本
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■ 栃本(とちもと): 埼玉県秩父市大滝字栃本

# 栃本関所(とちもとせきしょ): 秩父(ちちぶ)郡大滝村大字大滝字栃本にあった関所。甲斐・信濃へ通ずる裏街道の関所(戦国末期〜江戸期)で、中山道の碓氷(うすい)、東海道の箱根両関の中通りの要所に位置する。国史跡。白泰(はくたい)山(1,793m)から東に連なる尾根の南斜面にあり、南側は荒川の深いV字渓谷が迫り、山峡ながら眺望の開けた要害の地で、立地としては好条件に恵まれる。江戸日本橋から「熊谷通三十五里、川越通三十一里、田無通(青梅道)二十七里」といわれ、栃本のはずれで、左へ向かういわゆる秩父往還は雁坂(かりさか)峠を越え、江戸期に栃本関の加番所のあった川浦(山梨県東山梨郡三富村)までは35km。右へ向かう信州往還は十文字(じゆうもんじ)峠を経て梓山(あずさやま)(長野県南佐久郡川上村)まで32km、秩父側から両道へ行く人々は栃本で一泊したのち川浦・梓山をめざしたという。奥秩父を介した甲武間、信武間の道はすでに石器時代からのもので、信濃和田峠産の黒曜石が秩父側に運ばれていることや、秩父産緑泥片岩が甲信地区の遺跡から発見されていることから裏づけられる。戦国動乱期、甲信と武蔵の最短距離にあった栃本は武田、上杉、小田原北条氏らの前線基地として幾度か戦場となった。徳川氏入国後は、文物の交流ルートとしてばかりでなく、三峰詣・善光寺詣・身延山詣・秩父札所めぐりなどの巡礼道であった。関所開設の年代は不明な点が多く、応永年間説もあるが、「新編武蔵」では「甲州全盛の頃より立て、山中右馬允と云えるもの管かり守りしか」云々と述べており、武田信玄が全盛を誇った天文年間から永禄年間にかけてと推定される。ところで、関八州を手中にしようとする小田原北条氏を攻めて武田信玄が秩父に侵入するのは永禄12年であるから、栃本関は、この頃武田側の奥秩父における戦略上の拠点として設置され、その後、村内股の沢などのほか、谷を隔てて中津川の金山監視などの任にあたったものと思われる。なお、応永説は甲斐国守武田満信が奥秩父へ侵入し、関東管領上杉氏と争ったことによるものであろう。また、「栃本関はその位置が近かったので菅平(すがだいら)関とも云う」とあるところから、最初は現秩父市側へ約2km下った菅平(上中尾地区)に設けられ、天正10年武田氏滅亡により、鉢形北条の領地となり、栃本へ移されたと見る説もある。慶長19年、関東代官伊奈氏が山中右馬允に替えて大村与市郎を番士に任用し、栃本関は完備するが、この間の事情を「古大滝村鑑」は「是者武州甲州信州三か国国境目殊に金山御林御座候ニ付往古者山中右馬允御関番頭仕候処押領之儀相募御改易被仰付其後慶長十九年寅伊奈半十郎様久兵衛先祖大村与市郎江取締役兼相勤申候」と説明している。以来、甲州勢警備から幕藩体制の守砦へ性格を変じ、明治2年に関所が廃止されるまで250年余、二人扶持をもって大村氏(武田氏の遺臣)が番士を世襲。番所は大村氏家屋が役宅を兼ね、東西に関門を置き(御番所門の間口2.7m)、道の左右には木柵と板矢来を施設。明け六つから暮れ六つまでの通行を許可した。寛永20年には1日に100人をこえる通行人の実態が判明、当所から約4km秩父寄りの上中尾組の麻生(あそう)地区千島家に加番所が置かれ、下納(なげし)組、上中尾組、大久保組の百姓24人が慶応3年まで将軍の日光社参を中心に警備にあたった。現在の大村家天保15年(文政6年焼失後再建)の建築で、木造平家建て(一部2階)・切妻造・瓦葺【出典

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