宮崎県の戦国史
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■ 宮崎県の戦国史

# 室町時代の宮崎県は、南部を島津氏が、真幸院を中心とした加久藤盆地を北原氏、宮崎付近を伊東氏、中北部を古代から続く土着の豪族の財部土持氏と県土持氏が支配していた。長禄元年(1457年)に、伊東祐堯は財部土持氏を滅ぼして勢力を拡大して、さらに文明年間に島津氏の配下の飫肥の新納忠続と櫛間の伊作久逸が対立すると、祐堯の子の祐国は南部進出を狙って伊作氏を助けて参戦した。しかし、祐国が討ち死にするなど大敗を喫し、さらに祐国の跡目をめぐって弟の祐邑と嫡男の祐良による内訌も発生した。【出典

# この内訌に勝利した祐良は将軍の足利義尹(よしただ・後の義稙)から一字を拝領して尹祐を称し、伊東氏を統一した。しかし、尹祐の嫡男の祐充が早世すると、再び尹祐の弟の祐武と、祐充の弟の祐清・祐吉が争って、これを制した祐清が将軍家の偏諱を受けて義祐と改称して伊東氏を統一した。【出典

# 以後、義祐は戦国大名に成長し、天文17年(1548年)には将軍家の相伴衆となって、天文19年には上洛した。永禄年間になると、義祐は飫肥に進出、一方南北朝時代以来続いた北原氏の真幸院支配が終焉を迎え、北原氏は島津氏に降った。これによって、伊東氏と島津氏は直接対峙するようになった。【出典

# 天正5年(1577年)に、野尻城が島津勢に落とされると、またたくまに島津義久によって領地全てが制圧されて、義祐は豊後国大友氏のもとに逃れ、翌年に大友義統は県土持氏を滅ぼしたが、耳川合戦で大友氏と伊東氏の連合軍は島津氏に大敗し、伊東氏は一旦は滅亡して日向国島津氏の領地となった。【出典

# 天正15年(1587年)に、島津氏は九州入りした豊臣秀吉に敗れた。日向国は秀吉の家臣になって九州出兵の際に案内役を務めた伊東義祐の二男の祐兵や島津豊久をはじめ、豊前国高橋家筑前国秋月家などに与えられた。【出典】 

戦国時代とは

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