京都府の戦国史
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■ 京都府の戦国史

# 応仁の乱後の明応2年(1493年)に、将軍の足利義稙が畠山基家討伐の兵をあげた際に、細川政元が畠山基家と結んで畠山政長を暗殺、将軍の足利義稙を廃して新たに義澄を還俗させて将軍として擁立した。これを「明応の政変」という。これを機に将軍家の威光は失墜して、管領となった細川政元が畿内で大きな勢力を持った。【出典

# 政元は、山城国の北五郡(乙訓郡・葛野郡・愛宕郡・紀伊郡・宇治郡)に香西元長、南三郡(久世郡・綴喜郡・相楽郡)に赤沢朝経を守護代として派遣し、山城国の領国化を図った。しかし、政元には実子がいなかったことから次第に内訌状態になって、これを阿波細川氏の家臣だった三好氏が上京して介入した。三好長慶は将軍の足利義輝を追放して事実上京都を支配した。【出典

# 永禄元年(1558年)に、将軍の足利義輝を再び京に迎えると、永禄3年には河内国大和国を手中にした。永禄7年に三好長慶が死亡すると、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)が実権を握った。そして、永禄11年には織田信長足利義昭を奉じて上洛した。【出典

# 丹波国細川氏守護で、守護代香西氏がついていたが、のちに内藤氏が代わって守護代になった。しかし、国人層との軋轢が続き、しばしば一揆がおこった。一方、丹後国では四職の一つである一色氏が守護をつとめたが、応仁の乱の最中には一時若狭武田氏に守護職を奪われた。永正年間には家督をめぐって内訌がおこって、次第に没落した。天正10年(1582年)に義定が細川忠興に討たれて滅亡した。この間、天正3年(1575年)に織田信長の命で、明智光秀が丹波攻略を開始、天正6年には細川藤孝が丹後国の攻略を開始した。そして、天正8年には丹波国を明智光秀が、丹後国を細川藤孝が領して、京都府の領域は織田信長の支配下となった。【出典

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