神奈川県の戦国史
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■ 神奈川県の戦国史

# 相模国守護職をつとめていた上杉氏は、山内上杉家扇谷上杉家犬懸上杉家の三家に分裂した。応永23年(1416年)に上杉弾秀の乱で犬懸家が失脚すると、以後は山内家が関東管領を独占した。越後国上杉家から山内家を継いだ憲実は、将軍を目指した鎌倉公方足利持氏と対立、結局幕府の介入で持氏は自害した。これを永享の乱という。【出典

# 一方、扇谷上杉氏家宰太田道灌に江戸・岩付・河越の三城を築かせるなど武蔵国に大きな勢力を持ったが、文明18年(1486年)に定正は太田道灌を謀殺、これを機に山内家との争いが続いた。これを長享の大乱という。【出典

# 明応3年(1494年)に定正が山内家の上杉顕定と対陣中に死去すると、跡を継いだ甥の朝良は永正元年(1504年)に伊勢宗瑞(北条早雲)と結んで顕定を攻めたが失敗した。その後、早雲は扇谷上杉氏の重臣の大森藤頼を破って相模国に進出し、小田原城主になると、永正9年(1512年)には鎌倉に入った。この間、鎌倉公方足利持氏の滅亡で勢力を得た三浦時高は養子の義同と不和になり、明応3年(1494年)に義同が新井城の時高を討って三浦氏を継ぎ、新井城には子の義意をいれて自らは岡崎城に拠った。しかし、明応13年に義同は早雲に敗れて滅亡し、早雲は相模国の大半を制した。跡を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)と改姓した。小田原を本拠として相模国を制すると、さらには武蔵国に進出した。三代の氏康は、天文15年(1546年)の河越夜戦で扇谷上杉朝定を敗死させ、山内上杉憲政を越後国に追って関東地方北部まで支配し、関東平野の大半を支配した。しかし、天正18年(1590年)に四代の氏政のときに豊臣秀吉小田原攻めに敗れて氏照とともに自刃した。子の氏直は高野山に追放されて、翌年死亡し、嫡流は滅亡した。北条氏に代わって徳川家康が関東に入国し、江戸を本拠として関東八カ国250万石を領した。【出典】 

戦国時代とは

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