神奈川県内の「北条」の名字の詳細
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■ 北条(ほうじょう)

# 相模国戦国大名。従来は出自不詳といわれたが、現在では室町幕府の有力御家人だった伊勢氏の分家で備中伊勢氏の一族という。盛定は伊勢氏の本宗の室町幕府の政所頭人の伊勢貞国の婿になって奉公衆をつとめ、駿河国今川氏の取り次ぎだったことから、娘の北川殿が今川義忠に嫁いだ。北川殿の弟の盛時(新九郎)は将軍の足利義尚の申次衆になったのち、北川殿の縁で駿河国に下向した。そして、文明8年(1476年)に今川義忠が不慮の死をとげて内訌状態になった際には、当主は氏親として、元服するまでは小鹿範満が家督を代行することで収めて今川家に勢力をもった。長享元年(1487年)には今川家の家督を返さない小鹿範満を討って実力で氏親を名実ともに当主の座につけ、その功で今川氏一門に列した。明応2年(1493年)には今川氏の後ろ盾を得て伊豆国に侵攻した。やがて、今川氏から独立して興国寺城主となり、堀越公方の足利茶々丸を討って伊豆国を制圧して戦国大名になった。この間、大森藤頼を破って相模国に進出して小田原城主になり、永正13年(1516年)には岡崎城の三浦義同を滅ぼして相模国の大半を統一した。二代の氏綱は武蔵国に進出、大永4年(1524年)には江戸城を落とし、天文7年(1538年)には下総国国府台で里見議堯(義堯?)を破った。なお、初代の早雲は生涯伊勢氏を称し、氏綱のときに北条氏を称した。三代の氏康は、天文15年(1546年)の川越夜戦で扇谷上杉朝定を敗死させ、山内上杉憲政を越後国に追って関東地方北部を支配した。氏康には15人の子がおり、氏照を大石氏、氏邦を藤田氏、氏忠を佐野氏の養子として継がせたほか、氏規を韮山城主、氏堯を小机城主にするなど、一族を領国内各地に配置して一族による支配を強化した。天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原攻めに敗れて氏照とともに自刃。子の氏直は高野山に追放されて翌年死去し嫡流は滅亡した。【出典】  

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