東京都内の「後藤」の名字の詳細 | |
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■ 後藤(ごとう): 東京都の後藤家
# 東京都の後藤家: 江戸時代に江戸市中に金工家、金座、呉服師に後藤家があり、それぞれ別流といわれる。【出典】
・ 金工家の後藤家: 江戸時代の有力な金工職人。後藤祐乗が足利義政に金工家として仕え、四代の光乗が江戸時代幕府の御用商人となり鋳金を担当した。【出典】
・ 金工家。祖の祐乗(ゆうじょう)は足利義政に金工家として認められ、装剣金具の製作で一家をなした。四代光乗は1581年に織田信長から大判分銅役を命じられ、以後後藤家は幕府の鋳金も担当することになった。子の徳乗は天正長大判を鋳造している。八代則乗の時に三代将軍家光の招きで江戸に出て、十代廉乗の時に幕命により正式に京都を引き払った。江戸時代も権力と結びついて金工家として活躍した。この間に十数家の分家が生まれ、宗家を助けた。1876年の廃刀令をもって装剣金工の家としては終了した。【出典】
# 東京都の後藤家: 金座の後藤家: 金工家の後藤家の弟子の末裔。【出典】
# 東京都の後藤家: 呉服師の後藤家: 祖の松林は徳川家康が岡崎にいたころからの御用達。
・ 呉服師。「呉服後藤」と呼ばれた。初代の松林は徳川家康が岡崎にいた頃から御用達であったという。島津家から二代目を継いだ忠正は家康から扶持も貰った。三代目吉勝は三代将軍家光から上総国大多喜に知行を貰い旧領と合わせて500石を知行した。四代目益勝以降、代々縫殿助を称して公儀呉服師筆頭となり、将軍家や幕府、大奥の御用を務めた。元禄時代になると、越後屋などが新たに呉服師に追加されたことから、従来の呉服師は経営が苦しくなり、さらに八代将軍吉宗は公儀呉服師を減少させたが、後藤家は幕末まで続いた。【出典】
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