前田利家
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■ 前田利家(まえだとしいえ)【出典

・ 1538−1599年。享年62歳(病死)。

・ 出身地: 尾張国

・ 肩書き: 武将。

・ 家族: 父:前田利春、妻:

・ 家紋: 梅鉢紋

・ 尾張国荒子城主の前田利春の四男。幼少時から4歳年上の織田信長に仕えており、元服すると利家を称した。1560年の桶狭間の戦いでは、織田家に勘当された身分で無断出陣で武功を揚げた。帰参を許されてからは、「槍の又左」と言われ活躍した。1575年からは、柴田勝家に従事して、勝家とともに北陸地方に出陣した。6年後には利家も能登国を領する大名になった。本能寺の変後の賤ケ岳の戦いでは、秀吉と勝家の板挟みにあったが、秀吉に降伏した。秀吉の天下統一後には、豊臣五大老のひとりとなった。

■ 前田利家(まえだとしいえ): 前田利家は、織田家中の明智光秀柴田勝家滝川一益丹羽長秀、池田恒興、森長可、佐々成政堀秀政蒲生氏郷などが消えたため繰り上がって上席をしめた。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 前田利家は羽柴秀吉柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いでは柴田側に属したが消極的な姿勢だった。戦いの後、利家の娘の豪姫を秀吉に養女として出していたので許された。その後利家は大きく出世するわけだが、その要因は織田家の上位陣の明智光秀、柴田勝家、滝川一益丹羽長秀、池田恒興、森長可、佐々成政堀秀政蒲生氏郷などは次々に消えて最後に残ったからといわれる。【「系図」を知ると日本史の謎が解ける 八幡和郎 青春出版社】


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