女性の歴史的人物
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■ 阿茶局(あちゃのつぼね)

■ 朝日姫(あさひひめ)

・ 1543−1590年。豊臣秀吉の妹。小牧・長久手の合戦の後に、徳川家康を懐柔するために、既婚であったが別れさせられて、家康の正室として嫁がされた。1588年には、母の大政所を見舞うために上洛したが、病にかかって、聚楽第で母に先立って病死した。【出典

■ 篤姫(通称)

・ 1836年〜1883年
・ 諱: 篤子
・ 別名: 島津一子、かつ、いち、源篤子、藤原敬子
・ 院号: 天璋院
・ 階位: 従三位
・ 十一代将軍の徳川家茂の正室
・ 大政奉還後の大奥の処理を行った。大奥総裁として大奥の無血開城をおこなった。
・ 享年47歳

# 篤姫(あつひめ)【出典
・ 1836−1883年。享年48歳(病死)。
・ 出身地: 薩摩国。
・ 肩書き: 徳川家定の正室。
・ 家族: 養父:島津斉彬
・ 薩摩藩の島津家の一門に生まれ、藩主の島津斉彬の養女になって、十三代将軍の徳川家定の正室になった。しかし、すぐに家定が亡くなり、徳川家茂が将軍になったため、篤姫は仏門に入って、天璋院を称した。島津藩は天璋院に帰国を勧めたが、これを拒否して徳川家の人間となる決心をして、家茂を支えた。

■ 阿仏尼(あぶつに): ?ー1283年。女流歌人。藤原定家の子の藤原為家の後妻になった。京から鎌倉への紀行文の「十六夜日記(いざよいにっき)」の著者。【出典

■ 和泉式部(いずみしきぶ): 女流歌人。三十六歌仙の一人。敦道親王との情熱的な恋愛関係を歌物語風に書いた「和泉式部日記」が有名。娘の小式部内侍とともに一条天皇の中宮の彰子(しょうし)に仕えた。【出典

■ 江島(女中号)

・ 1681年〜1741年。
・ 別名: 白井みよ・絵島。
・ 江島は旗本の白井平右衛門の娘。六代将軍の家宣が甲府藩主だったころ、江戸の桜田御殿の奥に奉公にあがった。その江島に仕えていたのが、少女の頃のお喜世の方(月光院)。その後、お喜世の方が綱豊(家宣)の側室となったため、月光院に仕えるようになった。江島は御年寄として大奥総取締となった。1714年におきた江島生島事件が有名。当時の大奥の予算は20万両だったとか。江島は信濃国高遠藩に流罪となった。

■ 大政所(おおまんどころ)

・ ?ー1592年。 尾張国の出で、名前は「なか」。四人の子に恵まれ、長男は後の豊臣秀吉。秀吉の出世によって、長浜城に迎えられた。【出典

・ 大政所の故郷

■ お市の方(おいちのかた): ?−1583年。織田信長の妹。浅井長政の正室になったが、浅井家が滅亡したため尾張国に戻った。本能寺の変ののちに柴田勝家と再婚した。豊臣秀吉に攻められて、勝家とともに自害した。娘のうち、長女が秀吉の側室の淀殿(茶々)、次女が初、三女が徳川秀忠の正室の江(ごう)。【出典

■ お江与の方(通称)

・ 1573年〜1626年
・ 徳川二代将軍徳川秀忠の正室。
・ 諱: 江子・達子
・ 幼名: 江
・ 別名: 小督(こごう)
・ 位階: 従一位
・ 諡号: 崇源院(すうげんいん)
・ 織田信長の姪で、浅井長政とお市の方の三女。
・ 江は1592年に秀吉の甥の羽柴秀勝に嫁ぎ、一女をもうけた。その後、秀勝が死亡し、1595年に6歳年下の徳川秀忠と再婚。秀忠との間に、「千姫」「家光」「忠長」をはじめ、二男五女をもうけた。
・ 次女の珠子は加賀藩主の嫡男の前田利常に嫁いだ。末娘の和子は後水尾天皇に嫁ぎ、中宮になった。和子の子が、後に明正天皇となる。
# 江(お江与)【出典
・ 1573−1626年。享年54歳(病死)。
・ 出身地: 近江国
・ 肩書き: 徳川秀忠の正室。
・ 家族: 父:浅井長政、母:お市の方
・ 浅井長政の三女。長女は淀殿、次女は初の三姉妹。父の長政は織田信長との戦いで敗死。母のお市の方は羽柴秀吉によって自害に追い込まれた。江の最初の夫は織田信雄の従兄弟の佐治一成であったが、秀吉に離縁させられ、秀吉の甥の秀勝の妻になった。そして、秀勝の病死後には、6歳年下の徳川秀忠のもとに再々婚した。秀忠は律儀な生活で側室はおかず、年上の江に頭があがらなかった。

■ 春日局(かすがのつぼね・称号)

・ 1579年〜1643年。
・ 本名: 斎藤福
・ 階位: 従二位。
・ 明智光秀の家臣の斎藤利三の娘。三代将軍徳川家光(竹千代)の乳母を務めた。夫の稲葉正成は越後国糸魚川藩2万石の藩主となった。大奥の仕組みを作ったとして有名。その後、将軍の正室は公家五摂家、又は宮家から、側室は大奥中老(大名家や旗本の娘)となった。
それと、大奥の役目として大事なのは、改易された大名家の娘の就職先であった。つまり、大奥に娘たちを人質にとり、改易された大名家が謀反をおこすのを防いだともいう。
・ 1579ー1643年。明智光秀の重臣の斎藤利三の娘。本名は福。江戸城大奥に入って、家光の乳母になった。書道、香道、歌などに優れた。父母に疎んじられた家光をかばって、家康に働きかけて将軍職につけた。【出典

■ 北政所(きたのまんどころ)

・ 1549−1624年。「ねね」「お寧(ね)」と呼ばれた、豊臣秀吉の正室で、秀吉の天下統一事業を支え続けた。実子はいなかったが、加藤清正らを養育した。秀吉の死後は出家して、高台院となった。豊臣秀頼が後継者になった後には、淀殿らと別れて大坂城を去った。【出典

■ 桂昌院(院号)

・ 1627年〜1705年。
・ 本名: 北小路宗子。
・ 別名: お玉の方、秋野、三丸殿、藤原光子
・ 階位: 従一位
・ 三代将軍徳川家光の側室で、五代将軍徳川綱吉の母。
・ 「玉の輿」の語源となった。京の町人の娘が将軍の側室になったことによる。
・ 桂昌院の母親が二条家の家臣と再婚し、16歳の時に徳川家光の側室のお万の方の奉公人となるため、関白の二条家平の家臣である本庄宗正の養女となって、家格をあげた。
# 桂昌院(けいしょういん): 1627−1705年。本名はお玉。春日局の指示で徳川家光の側室になって、徳松を産んだ。家光の死後、大奥を離れて出家して、桂昌院を称した。徳松が五代将軍の綱吉になると、江戸城の三の丸に戻って、大奥で権力を握った。【出典

■ 豪姫(ごうひめ)

・ 1574−1634年。前田利家と正室の松との間の四女。生後、豊臣秀吉の養女になって溺愛されたが、15歳で宇喜多秀家へ正室として嫁いだ。秀家が関ヶ原の合戦で敗れ、八丈島に配流に「なると、加賀国前田家に戻って、秀家に仕送りを続けた。【出典

■ 光明皇后(こうみょうこうごう): 701−760年。藤原不比等の娘で、光明子。729年の長屋王の変の直後に聖武天皇の皇后になった、初めての人臣出身の皇后である。749年の聖武天皇の退位後には皇太后になった。【出典

■ 静御前(しずかごぜん): 源義経の愛妾。源頼朝と対立後の義経と、吉野で別れて京に戻る途中に捕らえられて、鎌倉に送られた。【出典

■ 彰子(しょうし): 988−1074年。藤原道長の長女。999年に12歳で一条天皇の後宮にはいって、翌年には中宮になった。女房である紫式部和泉式部らに教育を受けた。【出典

■ 千姫(通称)

・ 1597年〜1666年。
・ 徳川二代将軍徳川秀忠の娘。
・ 院号: 天樹院
・ 位階: 従一位
・ 豊臣秀頼、本多忠刻(ただとき)の正室。本多忠刻は、伊勢国桑名藩主の本多忠政の嫡男。
# 千姫(せんひめ): 1597−1666年。父は徳川秀忠、母は江。7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂城へ入った。1615年の大坂夏の陣では秀頼の助命を家康に請うたが許されず、秀頼が自害した後、本多忠刻に嫁いだ。しかし、家族が次々に亡くなったため江戸城に入って出家した。【出典

■ 竹御所(たけごしょ): 1202−1234年。源頼家の娘。祖母の北条政子に守られて、最後の源頼朝の血統として鎌倉幕府の象徴的存在になった。四代将軍の藤原頼経に嫁いだが、男子を死産して命をおとした。【出典

■ 千代(ちよ): 1557−1617年。内助の功の代名詞となった、山内一豊の正室。【出典

■ 定子(ていし): 977−1001年。藤原道長ら五兄弟の長男の藤原道隆の長女。990年に14歳で一条天皇の中宮になった。【出典

■ 東福門院(とうふくもんいん): 1607−1678年。徳川秀忠の八女の政子。14歳で後水尾天皇に嫁いだ。徳川家を天皇の外戚にして政権を盤石にすることを狙った。【出典

■ 巴御前(ともえごぜん): 源義仲の妾。信濃国の中原兼遠の娘。義仲と共に平家追討の戦いで奮戦した。太刀と強弓の女武者として、「平家物語」にも描かれている。落ち延びた義仲に最後まで従おうとしたが、義仲に諭されて別れた。【出典

■ 濃姫(のうひめ): 1535?−1612?年。美濃国の岐阜城主の斎藤道三の娘。名は帰蝶という。政略結婚で織田信長の正室になった。実子はおらず、側室の子の信忠を養子にした。【出典

■ 初(はつ): 1570−1633年。浅井長政お市の方の子で、三姉妹の次女。浅井家の主筋の京極家の当主であり、従兄でもあった京極高次の正室になった。【出典

■ 細川ガラシャ

・ 明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱(いみな)は「たま(玉、珠)」だが、キリシタンとなり「ガラシャ」という洗礼名を受ける。ガラシャはラテン語で「恩寵、神の恵み」の意。【出典
・ 1563−1600年。本名は「珠(たま)」。明智光秀の三女で細川忠興の正室。本能寺の変ののちに、罪人の娘として幽閉されたが、解放されたのちにはキリスト教に入信。ガラシャを称す。関ヶ原の合戦に際して、忠興の不在中に、石田三成に人質にとられそうになったため、家臣に胸を突かせて自害した。【出典

■ 松(まつ): 1547−1617年。前田利家の正室。利家の没後には出家して、芳春院となった。秀吉の正室の寧々とは親しく、前田家徳川家から謀反の疑いをかけられたときには、自らが家康のもとに人質となった。【出典

■ 紫式部(むらさきしきぶ): 本名は藤原香子(かおりこ)という説がある。女房名を「藤式部」といった。紫式部の父親は式部省にあったため。また「紫」は源氏物語の中の「紫の上」に由来すると言われる。【出典

■ 村山たか: 1809−1876年。近江国の寺社の娘。18歳で井伊家の侍女になって、彦根城下で井伊直弼と出会った。直弼が大老になると、京の倒幕派の情報を直弼に送るスパイとなり、安政の大獄に大きく加担した。直弼の暗殺後に捕らえられたが、三条河原に生き晒しにされただけで、女性であるという理由で死刑は免れた。その後は尼となった。【出典


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