宇和島藩
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■ 宇和島藩(うわじまはん): 愛媛県宇和島市

・ 「宇和島」の地名

・ 伊達家10万石・外様

・ 伊達遠江守

・ 仙台藩伊達政宗の子の秀宗が大阪の陣の功績でこの地を与えられた。

・ 幕末の伊達宗城(むねなり)は明治時代に外国事務総督を務め、侯爵。宗城は旗本の二男として生まれ、宇和島藩主の伊達家の養子となった。  

・ 外様・中藩。居城は宇和郡宇和島(宇和島市)。豊臣秀吉の四国征伐後、伊予国は小早川隆景の所領となり、宇和郡は、天正5年、戸田勝隆の所領となった。勝隆は文禄の役に従軍中朝鮮で病没した。文禄4年、藤堂高虎が宇和郡のうち7万石の領主として、板島丸串城(宇和島市)に入部した。高虎は慶長5年、国府(のち今治(いまばり)に築城)に移った。同13年には伊勢安濃津(三重県津市)から富田信高が宇和郡10万石の領主として入封したが、同18年改易された。そのため宇和郡は一時幕府領となり、藤堂高虎がその代官となった。この藤堂・富田両氏の時代に、板島丸串城が本格的に築城されて領国支配の本城となり、その城下町も整備された。また天正16年から文禄3年に実施された太閤検地のあとをうけて、領国支配の体制も徐々に整備された。慶長19年の大坂冬の陣の後、仙台(宮城県)藩主伊達政宗庶長子秀宗が宇和郡10万石の領主となり、翌元和元年に入封し、ここに宇和島藩が実質的に成立した。元和年間、板島は宇和島と改称された。【出典

# 宇和島藩士: 大和田家 ・ 鬼生田家 ・ 告森家 ・ 萩森家 ・ 佐瀬家 ・ 二神家 ・ 松根家 ・ 山家家

# 宇和島藩(うわじまはん): 伊予国。宇和島城。伊達家。外様大名。10万石。控間:大広間。格:国主。位階:従四位上。上屋敷:港区六本木。豊臣政権下で、戸田勝隆が入封し、藤堂高虎、富田信高へと続いた。元和元年(1615年)に、伊達政宗の子の秀宗が入封して、以後は伊達家が九代続いて廃藩置県へ。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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