仙台藩
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■ 仙台藩(宮城県仙台市

・ 「仙台」の地名 

・ 伊達家62万5000石・外様

・ 伊達陸奥守

・ 伊達家の先祖は藤原氏の一族で、常陸国下館にあったが、源頼朝によって陸奥国伊達郡に地頭として送り込まれた。その後、出羽国米沢に転じ、陸奥国岩出山を経て仙台に転じた。

・ 滋賀県の東近江市の旧八日市の南半分は仙台藩(伊達家)の領地だった。

・ 戊辰戦争後、石巻は高崎藩が占領した。

・ 「仙台藩では「要害」、久保田藩では「館(やかた)」、土佐藩では「土居」、薩摩藩士は「麓(ふもと)」という陣屋をつくり、一族の分家や有力な家臣が住んでミニ城下町を作った。秋田県仙北市の角館、高知県佐川、鹿児島県南九州市知覧などが代表的。

・ 伊達政宗

# 仙台藩(せんだいはん): 陸奥国。仙台城。伊達家。外様大名。62万石。天正19年(1591年)に立藩。控間:大広間格:国主位階:正四位下。上屋敷:港区東新橋。出羽国の米沢を本拠としていた伊達政宗は、会津に進出して芦名氏を滅ぼしたが、天正19年に豊臣秀吉の命で、陸奥国の岩出山58万5000石に転封となった。その後、徳川家康に従って、関ヶ原の合戦の後には2万石を加増されて仙台に転じた。さらに、常陸国内に1万石、近江国内に1万石を加増され、62万石になったが、実高は100万石を超えたという。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主的な存在で、戦後は白石28万石に減封された。【出典

# 仙台藩

・ 表高62万石、実高98万石。

・ 人口(享保2年): 869,846人

・ 家臣団(明和年間): 一門11人、一家17人、準一家10人、一族22人、宿老3人、着座28人、太刀上10人、召出一番坐38人、召出二番坐51人。平士3662人、組士707人、足軽2961人。合計7530人。

# 仙台藩士: 相原家 ・ 青田家 ・ 我妻家 ・ 秋保家 ・ 浅山家 ・ 芦名家 ・ 阿刀田家 ・ 姉歯家 ・ 鮎貝家 ・ 荒井家 ・ 有住家 ・ 粟野家 ・ 飯淵家 ・ 飯坂家 ・ 猪飼家 ・ 砂金家 ・ 石川家 ・ 石田家 ・ 石原家 ・ 石母田家 ・ 泉家 ・ 泉田家 ・ 伊東家 ・ 猪苗代家 ・ 猪飼家 ・ 伊場野家 ・ 今村家 ・ 入生田家 ・ 上野家 ・ 宇角家 ・ 宇治家 ・ 氏家家 ・ 牛田家 ・ 薄木家 ・ 内ヶ崎家 ・ 内馬場家 ・ 内海家 ・ 円城寺家 ・ 遠藤家 ・ 大石家 ・ 大条家 ・ 大河内家 ・ 大須賀家 ・ 大立目家 ・ 大津家 ・ 大塚家 ・ 大槻家 ・ 大友家 ・ 大町家 ・ 大松沢家 ・ 大和田家 ・ 岡村家 ・ 小国家 ・ 奥山家 ・ 小浜家 ・ 貝山家 ・ 柿沼家 ・ 笠原家 ・ 片倉家 ・ 片平家 ・ 勝田家 ・ 河東田家 ・ 上遠野家 ・ 門沢家 ・ 門目家 ・ 金上家 ・ 狩野家 ・ 萱場家 ・ 金成家 ・ 刈敷家 ・ 川島家 ・ 北郷家 ・ 木戸家 ・ 君ヶ袋家 ・ 桐ヶ窪家 ・ 久世家 ・ 朽木家 ・ 国安家 ・ 熊谷家 ・ 熊沢家 ・ 栗村家 ・ 黒江家 ・ 黒木家 ・ 小荒井家 ・ 郷右近家 ・ 香宗我部家 ・ 甲田家 ・ 高屋家 ・ 郡山家 ・ 国分家 ・ 小室家 ・ 小梁川家 ・ 坂家 ・ 境野家 ・ 寒河江家 ・ 作並家 ・ 佐瀬家 ・ 佐藤家 ・ 笹川家 ・ 笹原家 ・ 笹町家 ・ 佐々家 ・ 佐々布家 ・ 真田家 ・ 沢田家 ・ 三分一所家 ・ 塩家 ・ 志賀家 ・ 柴田家 ・ 志茂家 ・ 下郡山家 ・ 十二村家 ・ 白河家 ・ 白土家 ・ 白根沢家 ・ 白石家 ・ 菅井家 ・ 菅生家 ・ 椙原家 ・ 鈴木家 ・ 関家 ・ 瀬戸家 ・ 瀬上家 ・ 高泉家 ・ 高城家 ・ 高崎家 ・ 高清水家 ・ 高玉家 ・ 高成田家 ・ 高野家 ・ 武田家 ・ 竹村家 ・ 但木家 ・ 只野家 ・ 玉手家 ・ 玉虫家 ・ 田母神家 ・ 天童家 ・ 道家家 ・ 鴇田家 ・ 百々家 ・ 富田家 ・ 富塚家 ・ 中荒井家 ・ 中島家 ・ 中地家 ・ 中津川家 ・ 長沼家 ・ 中村家 ・ 中目家 ・ 中名生家 ・ 名村家 ・ 奈良坂家 ・ 西大篠家 ・ 西方家 ・ 錦織家 ・ 錦戸家 ・ 二瓶家 ・ 橋元家(陪臣) ・ 支倉家 ・ 蜂屋家 ・ 浜尾家 ・ 早川家 ・ 原田家 ・ 稗貫家 ・ 久光家 ・ 樋渡家 ・ 袋家 ・ 舟橋家 ・ 古内家 ・ 別所家 ・ 朴沢家 ・ 星家 ・ 保土原家 ・ 堀越家 ・ 本多家 ・ 本名家 ・ 前田河家 ・ 馬籠家 ・ 増沢家 ・ 増田家 ・ 斑目家 ・ 松坂家 ・ 松根家 ・ 松野家 ・ 松前家 ・ 馬淵家 ・ 万城目家 ・ 三沢家 ・ 溝江家 ・ 宮城家 ・ 三好家 ・ 明珍家(陪臣) ・ 村田家 ・ 本宮家 ・ 茂庭家 ・ 森田家 ・ 守屋家 ・ 師山家 ・ 八島家 ・ 谷地森家 ・ 簗川家 ・ 矢目家 ・ 矢吹家 ・ 山路家 ・ 結城家 ・ 湯目家 ・ 湯村家 ・ 横尾家 ・ 涌谷家 ・ 若生家

【歴史人 2018.08.No92 江戸三百藩「仕事と暮らし」】

# 伊達氏は福島県伊達市にルーツがあり、源頼朝の奥州征伐の際に功をあげて陸奥伊達郡を与えられた藤原朝宗が伊達氏を名乗ったのが最初。政宗の父の時代に内紛から本拠地を米沢に移し、その後政宗が岩出山にそして仙台に本拠地を移した。陸奥国宮城郡(仙台市)62万石。 

# 仙台藩(せんだいはん)

・ 江戸期の藩名。伊達氏が仙台に拠って組織した大藩。62万石。これは、加賀藩102万石、薩摩藩77万石に次ぐ天下第3の大藩である。初代藩主伊達政宗戊辰の役明治元年)の藩主慶邦。

伊達氏藤原北家山蔭流と伝える。その遠祖が常陸介として任地に下向、常陸国真壁郡伊佐荘中村に住して、伊佐または中村を名乗っていた。入道念西朝宗の時、子息一族をあげて文治5年の平泉合戦に参加、伊達郡阿津賀志(あつがし)山攻略戦に大功があり、戦後の論功行賞に伊達郡を拝領、よって伊達氏を称するに至る。【出典

・ 伊達氏は三百諸侯中最も数多い家臣を抱え、その数は徳川氏に次ぐと称されていた。伊達氏直属の家臣団だけでおよそ9878人、陪臣の家中士およそ2万4000人。総計3万5000人に近い大家臣団を構成していた。卒を除く純然たる士分だけで3540人余、家族を含む武家方総人口は寛保2年で18万5570人。この年の仙台領内総人口81万8061人の22.68%を占めていた。町方(町人)人口は2万374人で、総人口比2.48%である。【出典

# 伊達騒動: 仙台藩では、滋賀県の東近江市付近に飛び地があり、ここから来た川村孫兵衛は、北上川の河口を石巻に付け替えて領内の水運の便を向上させ、新田開発にも成功した。伊達政宗は重臣達が競って未開発地の開拓に取り組むように促したが、そうした開発が一段落し、政宗というカリスマ藩主を失うと、藩主の力の弱さが露呈していった。三代藩主の伊達綱宗は遊興にふけっていたので、重臣達が無理矢理に隠居させた。その後は、政宗の十男である伊達兵部宗勝が2歳の伊達綱村を後見して、幕閣の実力者の酒井忠清と通じて集権化をはかった。しかし、門閥派の伊達安芸らに幕府に専横を訴えられて、形勢不利になった兵部の側近である原田甲斐が伊達安芸を酒井邸で惨殺した。これを「伊達騒動」という。これで、藩政の抜本的な改革は困難化したが、七代藩主の伊達重村はせめて重臣達の知行地でない直轄地の余剰米を江戸に売りさばこうとした。それなりの効果は得られたが、江戸時代中期以降に相次いだ冷害によって収穫量がのびなくなると、財政が破綻し、宝暦天明の飢饉で大量の餓死者を出す結果になった。【出典

■ 慶長三陸地震津波における仙台藩内の被害

■ 天明の飢饉による死者


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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