家康が一番恐れたもの
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■ 家康が一番おそれたもの

一向一揆。まぁ、歴史の教科書には必ず出てくる話。

その親分が、信長を悩ませた大坂石山の本願寺。そして有名なのは加賀の一向一揆である。加賀の守護富樫氏を追い出したんだっけかなぁ?

しかし、現代の日本社会の構造の契機となったともいえる三河の一向一揆を忘れてはいけない。三河の一向一揆には江戸幕府の初代将軍となった家康も悩まされたという。

一説には、三方原の戦いで大敗した武田信玄よりも一向一揆の方が恐怖だったという。

三河の一向一揆の発端は、家康の代官が、一向宗寺院の不輸不入(ふわふにゅう・権力の立ち入りと徴税の禁止)の既得権を侵害したことで、いつの世も、既得権の打破は大変だ。この一向一揆では、徳川家の家臣の多くが一揆派に離反したといい、かの有名な「近藤です」こと、真田丸における「本多正信」も一時は家康のもとを離れていました。正信は、一揆鎮圧後には松永久秀のもとに身を寄せたり、越後国などで浪々の身を送った後、家康のもとに戻り重臣となったそうだが、その経緯はよくは知らない。

このように、一時は「身体がきわまった」と言ってもよかった家康ですから、江戸幕府創設後に宗教一揆の再燃の防止に注意を払ったのはいうまでもない。その一つは、東本願寺の後押し。関ヶ原の合戦の二年後に、東本願寺の創設を後押しした。それをうけて幕末には東本願寺は佐幕で、西本願寺は勤皇だったという。そのため、明治時代になって東本願寺派は明治政府からにらまれて?北海道開拓に従事することを強制されたという。したがって、北海道には東本願寺派の寺院が多いらしい。

それから、宗教を通じて末端をコントロールするための法度を多くだした。その中の重要なものは、本山末寺制度と檀家制度だそうだ。

・ 本山末寺制度は、本山を通して末寺をコントロールすることが可能である。

・ すべての日本人がいずれかの寺院の檀家にならなければならない。そのため、寺院が事実上行政の末端の役目を果たすこととなり、戸籍管理などが可能となった。「宗門人別帳」「過去帳」。

その他にも、「五人組制度」などもそうだが、「集団(公)で個人を監視する」などというのは日本の偉大な文化なのかもしれない。現代においても様々な団体が存在する。たしかに、それぞれの団体の存在意義はある。しかし、その背景は、やはり「集団(公)が個人を監視する制度」の維持なんだろう。そして、その効果は末端の個人の規模が小さければ小さいほど効果がある。どっかの業界団体なんかその最たるものかもしれないねぇ。たとえば、末端の個人(一般には法人が多いが)がビッグであれば、業界団体を通さずとも一定の力をもって政治に影響力ももてるわけであるから。

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