災害による集落の移転
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■ 東日本大震災の津波被害をもとに、沿岸部の集落の土盛りや高台への移転が行われているところもありますが、こういった集団移転は昔から日本で度々行われてきたようです。

昭和41年(1966年): 昭和41年9月25日、台風24号と26号による豪雨で旧足和田村の本沢川と三沢川で土石流が発生。根場地区と西湖地区を直撃し、94名の死者を出した。これらをうけて根場地区は南の青木ヶ原の溶岩台地に、西湖地区は湖の対岸に全世帯が移転した。

■ 江戸時代: 東海道の間の宿(あいのしゅく)の岩淵宿は度々の洪水や宝永の大地震と富士山の噴火による被害で今ある高台に移転した。

■ 江戸時代中期: 白須賀宿(静岡県湖西市白須賀)。白須賀宿は、かつては潮見坂の下の海岸沿いにあったが、宝永4年(1707年)の大地震による津波による被害で、現在の坂の上に移転した。

■  江戸時代初頭: 東海道の西倉沢宿(間の宿・あいのしゅく)。海沿いだった集落は、度重なる津波の被害で天和3年(1683年)に高台に移った。この地は薩?峠の登り口。本陣は川島家。

■ 江戸時代初頭: 東海道の吉原宿は、慶長6年(1601年)に宿場ができた時にはJR吉原駅のあたり(元吉原宿)にあったが、高波などの被害で寛永16年(1639年)に現在の中吉原宿に移転した。しかし延宝8年(1680年)に高潮の被害にあって再び新吉原(現在の吉原商店街)に移転した。

■ 伊豆半島の西海岸の土肥温泉から約5Km南下したところに小下田(こしもだ)という地区がある。その海岸沿いに丁ノ田(ちょんのだ)集落の住居跡がある。ここは「明応東海地震」の津波のとき、すべての家屋が流出し、生き残った人達は背後の標高200mの高原に移住し、藤沢という集落を開いた。丁ノ田地区は、今も田のみで家屋は一軒もないとのこと。【天災と日本人 − 地震・洪水・噴火の民俗学  畑中章宏 ちくま新書】

■ 気仙沼市唐桑地区では、明治の津波のあとにいったんは集落を高台に移転させたが、しばらくするうちに再び海沿いに住居を戻していった。【天災と日本人 − 地震・洪水・噴火の民俗学  畑中章宏 ちくま新書】

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