磐梯山の大噴火
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■ 磐梯山の大噴火

・ 明治21年(1888年)7月15日7時45分。死者461人。

・ 噴火後、いち早く救いの手を差し伸べたのは皇室で、当時の皇室は固有の財産を持っており、噴火の二日後に2000円を被災者に下賜した。これをうけて全国から義援金が集められ、その金額は4万円とも6万円とも言われる。「災害の被害者に義援金を集める」日本で最初の出来事といわれる。

・ 明治20年(1887年)3月、海軍力増強の予算案が国会で不承認されたのを受けて、明治天皇は皇室の予算から30万円を海軍の増強費として拠出した。それをうけて、全国から203万円の献金が集まり海軍力の増強にあてられた。おかげで、日清戦争にも勝てたらしい。

・ 磐梯山の大噴火は災害報道のはしりともいわれる。明治21年に電報による通信網が整備され、被災地からリアルタイムで情報が集まってきた。それをうけて三大新聞が報道合戦を繰り広げた。写真もこのあたりから一般化され、会津若松市内にも写真館があった他、噴火の年には喜多方にも写真館ができたそうだ。

・ 噴火の翌年に猪苗代高等小学校に入学したのが12歳の野口英世。 

# 磐梯山噴火

・ 明治21年(1888年)7月15日

・ 磐梯山の最古の噴火は大同元年(806年)で50余りの集落が埋没した。

・ 山体崩壊によって、5ヶ村11集落が埋没し、犠牲者は477人。

・ 東京の日赤から数名の医師が派遣され、「災害医療派遣の初めてのケース」と言われる。また、東京帝大の医学生が私費で被災地入りし、これも「災害ボランティアの初めてのケース」と言われる。【今こそ知っておきたい「災害の日本史」 白鳳地震から東日本大震災まで 岳真也 PHP文庫】

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