| 東海道 | |
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■ 東海道(とうかいどう)
| 家数 | 人口 | 男 | 女 | 旅籠数 | |||
| 品川 | 1,561 | 6,890 | 3,272 | 3,618 | 93 | ||
| 小田原 | 1,542 | 5,404 | 2,812 | 2,592 | 95 | ||
| 府中(静岡) | 3,673 | 14,071 | 7,120 | 6,951 | 43 | ||
| 浜松 | 1,622 | 5,964 | 2,932 | 3,032 | 94 | ||
| 岡崎 | 1,565 | 6,494 | 3,081 | 3,413 | 112 | ||
| 熱田 | 2,924 | 10,342 | 5,133 | 5,209 | 248 | ||
| 桑名 | 2,544 | 8,848 | 4,390 | 4,458 | 120 | ||
| 亀山 | 567 | 1,549 | 790 | 759 | 21 | ||
| 大津 | 3,650 | 14,892 | 7,306 | 7,586 | 71 | ||
| 伏見 | 6,245 | 24,227 | 11,996 | 12,231 | 39 | ||
| 守口 | 177 | 764 | 370 | 394 | 27 | ||
| 守口は、大阪の手前の宿場でさほど大きな町ではなかったようだが、現在地方の中核都市と言われている所は、この頃から栄えていたことが判る。特に熱田の旅籠の数が多いのが目立つが、これは熱田神宮と、熱田〜桑名間が海路になることが原因か? | |||||||
■ 川崎宿: 東海道の品川宿と神奈川宿の間は、距離があいていたので、1623年(元和9年)に「川崎宿」が設置された。川崎宿は幕末の記録では、家の数541軒、本陣2軒、平旅籠(宿泊だけ)39軒、販売旅籠(遊興を提供する)33軒。【出典】
■ 東海道
・ 元禄4年2月(1691年)。東インド会社の医官のケンペルが長崎から江戸に東上する途中の東海道をこう書いている。「途中の街では、街路の両側に多数の店舗があり、ほとんど空き地がない」と。また大阪については「その位置の都合よきため、水陸に最大の貿易をなし、また富裕なる市民有り、諸種の技術家、製造家ありて、奢侈と肉体的慰楽とに役立つもの溢るるほどにあり、日本人はみな大阪をば逸予歓楽の観場、戯園という。劇場にも私宅にも毎日のように演劇有り。市場には客を争い呼びて観覧をすすめ、見世物あり、手品師あり、稀品珍物は奇形児なり、異国の動物なり、或いは芸を仕込みたる鳥獣なり・・・」【朝日文左衛門「鸚鵡籠中記」 加賀樹柴朗 雄山閣】
■ 東海道五十三次は海・川沿いのため雨や高潮に弱かった。
・ 天武天皇の時代に、すでに設置した「国」を駅路で結ぶ七道制度が定められた。【出典】
・ 天武天皇の時代に、すでに設置されいた「国」を駅路で結ぶ七道制度が定められた。東海道はそのうちの一つで、京のあった山城国から、伊賀−伊勢−志摩−尾張−参河(みかわ)−遠江−駿河−甲斐−伊豆−相模の三浦半島の走水(はしりみず)へと続き、ここで海を渡って房総半島の上総−下総−常陸へと続く道だった。その後、「東山道」所属の武蔵(現在の東京)が加わり、上総から安房が分立したりして、海を渡らないコースへと変わり、現在の東海道の原形ができた。【出典】