「東五百住」の地名の由来 | |
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■ 東五百住(ひがしよすみ): 大阪府高槻市東五百住町
・ 芥川下流の支流女瀬(によぜ)川流域に位置する。地内の城垣内には戦国期の部将松永久秀の生家跡があった。【出典】
・ 東五百住村: 江戸時代から明治時代中頃にかけて摂津国島上郡みみられた村名で高槻藩領。【出典】
■ 五百住(よすみ): 大阪府高槻市五百住町
・ 「安閑天皇から屯倉のために水田を差し出すように求められた地元の郡司が、ウソをついてこれを拒んだため、罰として郡司の職をとかれた。そこで郡司は春と秋に五百人の労働者を差し出すので、子孫まで罰しないでほしいと願い出た。その五百人が住んだ土地が「五百住(いおすみ)」と呼ばれ、後に「五百住(よすみ)」と転じた。【大阪 地名の由来を歩く 若一光司 ベスト新書】
・ 五百住村(よすみむら): 南北朝時代から室町時代にかけて、摂津国島上郡(大阪府高槻市)にみられた村名。【出典】