「楢下」の地名の由来
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■ 楢下(ならげ): 山形県上山市楢下

・  楢(なら)は並ぶ、ならす、下(げ)は所の意味。小平地の意味。

・ かつては奈良下とも書いた。

・ 楢下楯(ならげたて): 中世の城郭。現在の上山(かみのやま)市大字楢下に所在。須川と金山川の合流点の段丘上に立地。北を須川、南を金山川が流れて天然の要害を成している。台地の頂上は30aほどの平坦地で本丸跡と思われ、東方の山とは深い空濠で断たれていたが、現在はわずかに空濠の痕跡が残されているにすぎない。文明年間に長沼信濃守が築城し、伊達氏の勢力下にあったが、のちに最上氏に滅ぼされ楢下駿河守が配されたと伝えられる。天正2年の最上義守・義光父子の抗争に際し、義守を支援するため出陣した伊達輝宗が楢下に城塞を築いており、あるいはこの時に築城されたものとも考えられる。元和8年の最上家の改易後は荒廃し、天保年間には外濠が埋められて開田されたという。【出典

・ 楢下村: はじめ最上氏領、元和8年からは上山藩領。本庄郷に属す。村高は、元禄11年の川西村々差出帳、「天保郷帳」、天保13年の村山石高帳ともに524石余。江戸後期に金山村を分村。宝暦7年の洪水で全村流失。その後作成した宝暦8年村絵図によれば、南から新町・下町・横町・上町があり、10数軒の旅籠屋が見える。なお新町は下町から移ってきたものである。本陣・脇本陣は下宿にあり、庄内屋・秋田屋・宮地屋などの旅籠屋が見える。楢下村は出羽国最南端の宿場町で、本陣を世襲した斎藤利兵衛家はもと最上氏の家臣で、出羽・陸奥両国の境目預りをつとめたがのち帰農して、その子孫が楢下本陣問屋を勤めた。【出典

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