高知県内の「一条」の名字の詳細
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■ 一条(いちじょう): 高知県の一条家 

# 高知県の一条家: 藤原氏の一族の一条氏の出。応仁の乱のときに一条教房が土佐国に転じて武士となった。後に、家臣に領地を奪われ豊後国に逃れた。【出典

# 土佐国戦国大名。摂関家の一条家の庶流応仁2年(1468年)の応仁の乱を避けて奈良にいた教房が、土佐国の蓮池城主の大平氏の助力を受けて、荒廃した所領の土佐国幡多荘(高知県四万十市)に下向し、中村に住んだのが祖。教房は国人の官職昇進の便宜を図るなどして、在地武士を掌握し、幡多荘を回復した。子の房家は土佐国の国司になって、以後はそのまま土着して幡多郡・高岡郡を支配して、戦国大名に成長した。天文18年(1549年)に、6歳で家督を継いだ兼定は中村城に拠って、幡多郡・高岡郡に加えて伊予国宇和郡まで支配したが、やがて台頭してきた長宗我部元親に所領を奪われ、天正元年(1573年)に元親の養女を娶った内政に家督を譲った。翌2年には家臣によって豊後国に追われると大友宗麟のもとでキリスト教に入信、宗麟の助力を得て帰国、旧臣を糾合して渡川で元親と戦って再び敗れ、伊予国宇和島に逃れた。天正9年には内政も国外に追放されて事実上滅亡した。【出典

# 土佐国の戦国大名。摂関家の一条家の庶流。応仁2年(1468年)に、応仁の乱を避けて奈良にいた教房が、土佐国の蓮池城主の大平氏の協力を得て、荒廃した所領の土佐国幡多荘(高知県四万十市)に下向、中村に住んだのが祖。教房は国人の官職昇進の便宜を図るなどして在地武士を掌握し、幡多荘を回復した。子の房家は土佐国司になって、以後はそのまま土着して幡多郡・高岡郡を支配して、戦国大名になった。天文18年(1549年)に6歳で家督を継いだ兼定は中村城に拠って、幡多郡・高岡郡だけではなく伊予国宇和郡まで支配したが、やがて台頭してきた長宗我部元親に所領を浸食され、天正元年(1573年)に元親の養女を娶った内政に家督を譲った。翌年に家臣によって豊後国に追われると大友宗麟のもとでキリスト教に入信、宗麟の援助を得て帰国。旧臣を糾合して渡川で元親と戦って再び敗れ、伊予宇和島に逃れた。内政は長岡郡大津城(高知市大津)に拠ったが、天正9年に国外に追放されて事実上滅亡した。内政は伊予の法華津氏のもとに逃れた。【出典

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