山口県内の「大内」の名字の詳細
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■ 大内(おおうち): 山口県の大内家 

# 山口県の大内家: 山口を本拠とした有力な守護大名で、百済の王子の琳聖太子の子孫を称す。平安時代の末期から周防国在庁官人として活躍した。出典】 

・ 周防国の守護。百済の聖明王の第三子の琳聖(りんしょう)太子が周防国多々良浜に来て土着し、多々良氏となったのが祖と伝えるが不詳。平安時代末期に盛房が周防介となり、以後在庁官人として周防介を世襲した。源平の合戦では源氏方に属し、重弘は六波羅評定衆も務めた。国衙機構の中にありながら武士として国衙領を侵すことで成長した。南北朝時代、1352年に鷲頭氏を滅ぼして周防を統一、さらに長門守護の厚東氏も討って防長を統一した。後に北朝に転じると石見にも進出し、周防・長門・石見の守護を兼ね、本拠地を大内から山口に移した。盛見は周防・長門・豊前・筑前の守護となり、室町幕府の九州経略の拠点となったが、1431年に筑前・深江で大友・少弐連合軍と戦って戦死した。盛見は後継ぎを決めていなかったことから、幕府は持世に惣領職、持盛に長門国以下を安堵。これに不満を持って、持盛は翌年に満世と共に持世を襲い、持世を石見に追ったものの、持世は国衆の支持を得て再入国、幕府の支持も得て持盛を篠崎城に討った。以後、中国地方の大半を支配、山口を拠点に明や朝鮮とも貿易を行い、多くの文人・禅僧・貴族らが山口を訪れて「西の京」と呼ばれた。戦国時代、義隆は周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の七カ国の守護を兼ねたが、1551年に重臣の陶晴賢の反乱で義隆が殺された。晴賢は義隆の甥の義長を擁立したものの、1555年に厳島合戦で毛利元就に敗れて自刃、1557年には義長も自刃して滅亡した。【出典】 

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