茨城県内の「多賀谷」の名字の詳細
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■ 多賀谷(たがや)

# 常陸国戦国大名武蔵七党の野与党の有賀頼基の三男の光基が武蔵国埼玉郡騎西荘多賀谷郷(埼玉県加須市)に住んで多賀谷二郎を称した。その子の重光の跡は、村山党の金子家忠の二男の家政が継いだとされる。鎌倉時代の御家人となり、のちに結城満広の子の光義が継いで本拠地を下総国結城に移し、以後は結城氏に属した。結城合戦の際、光義の長男の彦太郎は討ち死、二男の氏家は結城氏朝の子の重朝を奉じて佐竹義憲のもとに逃れた。宝徳2年(1451年)に結城氏が再興されるとその近習になり、享徳3年(1454年)には上杉憲忠を討ち、その功で下妻を与えられて多賀谷城(茨城県下妻市)を築いた。戦国時代には結城氏のもとを離れて独立、佐竹氏宇都宮氏と結んで北条氏と戦った。天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原攻めの後には秀吉に仕えて、下妻で6万石を領した。重経は関ヶ原の合戦で西軍に属したため翌年に除封となった。【出典

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