菅原道真
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■ 菅原道真(すがわら みちざね): 「菅原」の名字の由来

・ 845−903年、平安時代の貴族で右大臣をつとめる。宇多天皇に重用され醍醐天皇のもとで右大臣をつとめるが、左大臣藤原時平に懺訴され太宰府に流される。平安初期に大和国菅原奈良市菅原町付近)に住んでいたことから、菅原氏を名乗る。

・ 菅原道真は18歳で文章生となり、26歳の時に「方略試」という試験をうけた。式部省が行う国家試験のなかで一番難しい試験で、そのときの二問のうちの一問が地震についての設問だった。二問とは「氏族を明らかにす(明氏族)」「地震を弁ず(弁地震)」。試験に合格した道真は33歳で文章博士に補せられた。【天災と日本人 − 地震・洪水・噴火の民俗学  畑中章宏 ちくま新書】

・ 菅原道真の直系は高辻氏を称し、太宰府天満宮の神官。分家には唐橋家、五条家東坊城家と言った公家がある。【名字でたどる日本の名家 森岡浩 日本実業出版社】

# 菅原家

■ 菅原道真(すがわらのみちざね):【出典

・ 845−903年。享年59歳(病死)。

・ 出身地: 京。

・ 肩書き: 公家

・ 家族: 父:菅原是善。

・ 学者の家に生まれた菅原道真は、幼少のころから天才といわれ、18歳で文章生(もんじょうしょう・大学寮で詩文や歴史を学ぶ学生)になって、877年に文章博士(もんじょうはかせ・教官)になった。また、菅原家の私塾である菅家廊下(かんけろうか)を主宰して、宮廷の代表的な知識人として知られた。887年に、藤原氏と親戚関係にない宇多天皇が即位すると、藤原基経は他氏の起草した詔勅の中の「阿衡(あこう)」という言葉に難癖をつけて紛争をおこし、自分の娘を結婚させることで決着をつけた。これを「阿衡の紛議」という。このとき、讃岐国の国司だった道真は、この事件について意見書を出して、基経を諫めた。このため、道真は宇多天皇から絶大な信頼を寄せられていった。国司の任期を終えて京に戻った道真は、宇多天皇の信任を受けて抜擢された。遣唐大使にも任命されたが、このときは唐が衰えたことを懸念して中止をきめた。その後、55歳で右大臣となったが、基経の子の藤原時平などに妬まれた。そして、道真は時平の讒言で901年に大宰府に左遷させられた。


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