黒羽藩 | |
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■ 黒羽藩(栃木県大田原市黒羽)
・ 「黒羽」の地名
・ 大関家1万8千石・外様・陣屋
・ 大関増業(ますなり): 下野国黒羽藩主。増業は諸国から名水を集め、水の研究にうちこんだ。増業は1781年に伊予国の大洲藩の加藤光泰の八男として江戸藩邸で生まれた。1811年に黒羽藩の大関家の養嗣子となった。
・ 黒羽藩は18611年に、お家騒動で失脚した前の藩主に代わって、遠江国の横須賀藩主の孫の大関増裕が藩主となった。増裕は幕府の海軍奉行となった。しかし、藩主の不慮の死により新政府に恭順した。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】
・ 那須郡黒羽に居所を構え、同地周辺を領有した外様小藩。中世下野北部の豪族の那須氏の部将として黒羽地方に勢力を培っていた大関氏は、戦国末期には那珂川東岸に黒羽城を築いて、那須氏傘下の北那須衆のなかで大田原氏と並ぶ重鎮となっていたが、天正18年豊臣秀吉の小田原の陣に際して大関高増とその長男晴増は、宗家那須氏の態度が定まらないうちに秀吉に参謁し、那須郡内1万3000石の本領を安堵された。譜代大名のめまぐるしい交替を特徴とする下野の大名のなかにあって、一貫して同じ家が藩主を勤めたのは、大田原藩などとともに極めて稀な事例であった。また、外様大名でありながら幕府の要職にも就き、歴代藩主のうち、高増・増興・増陽・増業・増昭が1度、増親・増儀が2度、増栄・増輔が3度、大坂城加番を勤め、幕末の藩主増裕は講武所奉行・陸軍奉行を経て、海軍奉行を兼任する若年寄に昇進している。幕末期、大関増裕は幕府の陸海軍奉行や若年寄を歴任したが、慶応3年12月増裕の不慮の死後、藩論は早期に新政府恭順に傾き、戊辰戦争では黒羽藩軍は官軍側の先兵となった。【出典】
# 黒羽藩(くろばねはん): 下野国。黒羽陣屋。大関家。外様大名。2万石。天正18年に立藩。控間:菊間。格:無城。位階:従五位下。上屋敷:千代田区外神田。大関高増・晴増父子が豊臣秀吉の小田原攻め後に本領を安堵されて立藩。【出典】
# 黒羽藩士: 浄法寺家
【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。