「五城目」の地名の由来
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■ 五城目(ごじょうめ): 秋田県南秋田郡五城目町

・ 「ごじゅうめ」「ごじゅうのめ」「ごじょうのめ」または「いそのめ」ともいい、五十目・五拾目・五十野目・五拾野目とも書く。磯見も当地であったかという。馬場目(ばばめ)川の中流域に位置する。富津内(ふつない)川との合流地点右岸の自然堤防上に中心集落が発達。地名は令制郡郷の率浦(いさうら)郷の「率」の目から転化とする説、周辺に5つの城を控えた中心地とする説がある。北方の山地にある砂沢城シラス館は、「続日本紀」記載の狄(てき)志良須(しらす)の根拠地と言い伝えられ、古代の開基という真言宗高性寺など、古代の伝説も多い。「ごじょうのめ」を「ごじょうめ」と正式に読むことにしたのは、明治以降である。【出典】   

・ 五城目(ごじょうめ): 和名抄にでてくる「卒浦郷(いさうらごう)」のあたりで、昔は「五十目」と書いて「いそのめ」と呼んだが、江戸時代からは「ごじゅうめ」と読まれ、明治時代には「ごじょうめ」に統一された。【出典

・ 五城目(ごじょうめ): 秋田県南秋田郡五城目町。中世には、五十目(ごじゅうのめ)郷といった。イソノメに、「五十目」の文字をあてて、「コジュウノメ」になり、さらに「ゴジョウノメ」と転じ、文字も五城目とあてるようになったという。それに従えば、イソ(岩)・ノ・ヘ(辺)の転か。明治時代までは「ごじょうのめ」とも読んだ。【出典

・ 五城目(ごじょうめ): 昔は、「五十目」「五拾目」「五十野目」とも書き、「いそのめ」とも読んだという。「卒浦」を「いそうら」と読むと、「磯浦」という漢字がイメージされてくる。この地は、八郎潟の東に位置し、かつて八郎潟が海であった頃には、日本海に面する「磯浦」であたっと推測される。「率(そつ)」は「五十」になり、江戸時代からは「五十目村」で、読みも「ごじゅうめ」「いそのめ」と読まれていたが、明治29年(1896年)に「五城目町」になり、読みも「ごじょうめまち」に統一された。【出典

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