新島襄・八重
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■  新島襄(にいじまじょう)【出典

・ 「新島」の名字の由来

・ 1843−1890年。享年48歳(病死)。

・ 出身地: 江戸。

・ 肩書き: 教育者、宗教家。

・ 新島襄は上野国の安中藩士の子として江戸神田で生まれた。幕府が海軍士官養成のために設けた軍艦操練所で学び、そこでアメリカ人の宣教師の訳した漢訳の「聖書」に出会い、アメリカ渡航を決意した。ボストンに着いた新島は、洗礼を受けてフィリップス・アカデミーを卒業。さらにアマースト大学を卒業して、日本人初の学士(理学学士)になった。1872年に、新島はアメリカで岩倉使節団に出会う。英語が堪能な新島は使節団に合流して、通訳として欧州へも渡り、各国の教育制度を学んだ。その後、帰国し京都に同志社英学校を開校し、初代校長を務めた。このときに開校の協力をした山本覚馬の妹の八重と結婚した。

■ 新島八重(にいじまやえ)【出典

・ 1845−1932年。享年88歳(病死)。

・ 出身地: 会津藩。

・ 肩書き: 新島襄の妻、茶道家。

・ 新島八重は、会津藩の砲術師範の娘に生まれた。戊辰戦争では男装して銃撃戦に参加し、後に「幕末のジャンヌジャルク」と言われた。敗戦後、八重は京都府で政治顧問をしていた兄の山本覚馬を頼り上京し、女紅場(にょこうば・現京都府立鴨沂高等学校)の教員補佐になった。このときに勤務していた円能斎の母から茶道を習った。1875年に、新島襄がキリスト教主義の学校を建設するために京都に来ていた。新島襄の旧主家が京都所司代を務めていた関係で、公家や華族と親交が深かったからである。しかし、新島襄の学校設立に、京都の僧侶や神官が反対した。京都府に圧力がかかり、八重は女紅場を解雇された。八重は新島襄とキリスト教式の結婚式をあげ、同志社運営をささえた。


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