| 伊能忠敬 | |
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■ 伊能忠敬(諱): 「伊能」の名字の由来
・ 1745年〜1818年
・ 幼名: 三治郎
・ 通称: 三郎右衛門・勘解由
・ 日本地図を作ったことで有名。
・ 忠敬は九十九里浜の網元で、名主を務める小関家の次男として生まれた。18歳の時に佐原の伊能家に婿養子に行った。1766年の凶作で窮民を救済し、1783年の浅間山の噴火の際には、利根川洪水によって生じた窮民を救済した。その功績で、伊能家は苗字帯刀を許され、江戸の大学頭の林鳳谷の門人となって、「忠敬」の名を賜った。
# 伊能忠敬: 上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里町小関)の生まれ。生家は小関村の名主の小関家。17歳で伊能家に婿入りした。【出典】
■ 伊能忠敬(いのうただたか)
・ 1745−1818年。享年74歳(病死)。
・ 出身地: 下総国(千葉県)
・ 肩書き: 商人。測量家。
・ 家紋: 丸に違い鷹の葉紋。
・ 伊能忠敬は、上総国(千葉県)山辺郡の名主である小関(おぜき)家に生まれた。18歳で下総国(千葉県)佐原村の豪商の伊能家の婿養子になった。商人として才覚に恵まれ、家業は大きく栄えたが、伊能忠敬には学問をしたいという気持ちが強かった。そのため、50歳で家督を長男に譲り隠居、翌1795年に江戸に出た。忠敬は幕府の天文方の高橋至時に入門して、天文学、測量術、西洋暦などを学んだ。1792年に、ロシア使節のラクスマンが蝦夷地の根室に現れたため、幕府は蝦夷地の調査と海防を急いでいた。忠敬の几帳面さと根気強さ、私財を投入してでも、測量事業を行いたいという希望などから、蝦夷地の海岸線の測量者として白羽の矢が立った。第一次測量は、1800年に、蝦夷地とその往復経路の関東・東北地方で行われた。蝦夷地では、現場で測量術を学んだ間宮林蔵が北部を担当した。忠敬は17年かけて、全10回、全行程計約4万キロを歩いて全国測量を終えた。【出典】
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