長沢松平家
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■ 長沢松平家(ながさわまつだいらけ): 松平家

# 長沢松平家は、信光の子の備中守親則が三河国宝飯郡長沢(愛知県豊川市長沢町)に分地されたことに始まる。八代の上野介康忠は家康の異母妹の矢田姫と結婚し、岡崎三郎信康の家老となったが築山事件で蟄居。その後許されて、長篠合戦に従軍し、家康の伊賀越えに従い、小牧・長久手の合戦に参加した。

# 九代康直は家康の関東入国で武蔵国深谷1万石を賜ったが、死去後養子の松平上野守忠輝(家康の六男)は越後高田藩60万石を領したが改易。その後、子孫は八代将軍吉宗の時代に300石で取り立てられた。

# 本家が断絶した後、松平忠輝、そして養子の(奥平)忠明が名跡を継いだ。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 長沢松平: 松平信光の子の親則が三河国宝飯郡長沢(愛知県碧南市音羽町)に住んだのが祖。徳川家康に六男の忠輝が継いだが改易。三代将軍徳川家光の時代に「知恵伊豆」と言われた松平伊豆守信綱の出身は大河内家だが、叔父の松平正綱の養子となり松平を称した。松平伊豆守信綱は1627年に立藩し、忍3万石から川越6万石へ。

# 長沢家: 松平信光の十一男の親則が三河国宝飯郡に長沢城(愛知県豊川市長沢町)を築いて住んだのを祖とする。徳川家康の関東入国に際しては武蔵国深谷1万石。【出典】 

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