「鳴沢・成沢」の地名
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   「成沢・成澤」の名字
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■ 山梨県南都留郡鳴沢村: 広島の豪雨災害のさなか、安部総理がゴルフを続けていたとかのネタが出ているようですが、そういった週間誌ネタはおいといて、安部総理の別荘って山梨県南都留郡鳴沢村にあるようですね。この「鳴沢・成沢」という地名も、「川や沢の水の流れがゴウゴウとする」様を表し、ある種の災害地名の一つと言われています。ところで、この鳴沢村の北側に「足和田山」という山があり、その山の向こう側にはかつて足和田村(富士河口湖町)という村がありました。
 この村では昭和41年に大災害がおきて、集落毎移転したという記録があります。

■ 足和田土石流災害
昭和41年9月25日、台風24号と26号による豪雨で旧足和田村の本沢川と三沢川で土石流が発生。根場地区と西湖地区を直撃し、94名の死者を出した。これらをうけて根場地区は南の青木ヶ原の溶岩台地に、西湖地区は湖の対岸に全世帯が移転した。

いつだったか、BSジャパンの「空から日本を見てみよう」をみていたら、富士の樹海の中に区画された開拓村のようなものがあり、民宿村になっているそうです。今考えてみると、この集落が足和田村の根場地区が移転してきた場所なんでしょうね。

■ 鳴沢(なるさわ): 山梨県南都留郡鳴沢村
・ 明治22年に成沢村と大嵐村が合併して成立した。大字は鳴沢・大嵐の2大字を編成。村役場を鳴沢地内の大田和に置く。富士山の北正面に位置するため冬の寒気と烈風にさらされ、開花や五穀の結実が遅く、麦は7月末に熟すとただちに8月初旬には種蒔きを行い、家に置く期間が短いので「三日麦」といった。作物は麦・粟・稗・大豆・小豆・蕎麦のほか菜類で、とくに蕎麦は美味という。生業は農業と山稼ぎが中心であったが、第2次大戦後広大な原野を利用し酪農経営が導入され、かつ富士の冷涼な気温のもとで高原野菜が生産されている。
・ 鳴沢(なるさわ): 成沢とも書く。富士山北面、足和田山の南麓に位置し、西部から南部にかけて青木ケ原の樹海を含む広大な富士の裾野が広がる。地名の由来は諸説がある。一説には、富士の剣ケ峰と雷岩との亀裂である大沢を岩が転落するとき、激しくぶつかり合って遠雷のごとく鳴ったことに由来するという。また、一説には、往古富士山八葉(山頂の噴火口の周辺の山8峰を仏教の蓮8弁にたとえていう)に池があり、その水が沢を流下する際、雷鳴のような大きな音がしたことにちなむという。さらに、一説には、貞観6年の大噴火以前に精進湖に連なる?の海の水が流出して大田川となったが、当地は往古窪地となっており、その水の落口では万雷のとどろくような音がしたからともいう。【出典
・ 「ナル(緩傾斜)」+「サハ(沢)」で、「まわりに比べて緩やかな地形」。【出典

■ 足和田村(あしわだむら): 現在の山梨県富士河口湖町。富士山北麓、西湖沿岸および河口湖西岸に位置する。西浜村・大嵐村の2か村が合併して成立。村名の由来は富士の三足の1つ足和田山にちなむ。畑作と養蚕が主要な産業であったが、昭和41年の台風26号により西湖・根場(ねんば)地区の集落はほぼ全壊し、西湖南西岸に集団移転し民宿経営を始め、郡内屈指の民宿村としての端緒を開いた。【出典

■ 西湖(さいこ): 山梨県南都留(みなみつる)郡(旧)足和田村にある富士五湖の1つ。本栖湖・精進(しようじ)湖・西湖の3湖はもとは連続し、?の海といわれた。当湖から精進湖にかけて広がる裾野は青木ケ原樹海である。昭和41年9月25日の26号台風に伴う土石流で大被害を受け、湖畔の西湖・根場の両集落は全滅し死者94人にも達した。両集落の大部分は昭和44年、青木ケ原上に移住し、民宿を主とする観光村となっている。【出典

■ 成沢(なりさわ): 山形県山形市蔵王成沢

■ 「ナル、ナラ」の資料集

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