松倉勝家
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■ 松倉勝家(まつくらかついえ)

・ 「松倉」の名字の由来

・ 江戸時代に切腹させられた殿様は多いが、島原の乱の原因となって苛政の責任を問われた松倉勝家は、江戸時代を通じてただ一人、斬首となった。ただ、父親でほぼ同罪の松倉重政は、娘が公家の坊城家に嫁いで、勧修寺家を経て仁孝天皇の母系祖先にあたり、DNAは今上殿下に及んでいるから、その意味では運がよかったそうだ。戦国時代に島原半島を領した有馬氏が転出したあと、大和国五条から筒井氏の旧臣の松倉重政が入り、雲仙連峰の麓の高台で海にも近い森岳に築城して島原と改称した。4万石にはすぎた城で、分不相応だったため重税を課して領民を苦しめた。また、勝家はキリシタンを火あぶりや、磔、簔に火を付けて焼き殺す、雲仙の噴火口に投げ込むなどの行為を行った。たばこ税をはじめ、囲炉裏税、誕生税、埋葬税など様々なものに課税したが、年貢が払えなかった女性が水牢に入れられて死んだことをきっかけとして、代官所が襲撃されて、これに唐津藩の寺沢堅高の領地だった天草の小西浪人が合流して原城跡に籠もった。これを「島原の乱」という。戦後の島原には高力家、ついで深溝松平家が入って、領民の多くが処分された後に、各地から多くの移民がやってきた。このなかで、瀬戸内海の小豆島から来た移民がもたらした素麺が島原の名物になった。【出典


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