「かも」の地名
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■ 鴨(かも): 富山県高岡市鴨島町(かもじままち)。南北朝期に見える地名。射水(いみず)郡のうち。貞治2年6月付の「二宮円阿軍忠状」によると、将軍家ならびに斯波高経より越中発向を命ぜられた円阿が、和田合戦に戦功をあげ、和田城警固を果たしたのち、この年10月3日を以て当地在の鴨城警固を命じられ、城兵とともにこの任務を遂行していることが知られる。現在の高岡市鴨島あたりに比定される。【出典

■ 鴨(かも): 滋賀県高島市鴨。地名は、加茂社領に由来すると伝える。賀茂とも書く。【出典

■ 賀茂(かも): 京都府京都市北区。奈良期から見える地名。山城国愛宕(おたぎ)郡のうち。鴨とも書く。高野川との合流点以北の賀茂川流域一帯をいう。「山城国風土記」逸文に地名が初めて見え、かつその由来が述べられる。「可茂社。称可茂者。日向曽之峯天降坐神。賀茂建角身命也。神倭石余比古之御前立坐而。宿坐大倭葛木山之峯。自彼漸遷至山代国岡田之賀茂。随山代河下坐。葛野河与賀茂河所会至坐。見廻賀茂川而言。雖狭小。然石川清川在。仍名曰石川瀬見小川。自彼川上坐。定坐久我国之北山基。従?時。名曰賀茂也」。「愛宕郡村志」の「賀茂の名称は神代より起こる。即ち賀茂健津見命より起れり。此地は命の鎮座ありしより賀茂と号せしなり」との説は、これに基づくと見られる。「地名辞書」には、「名義は水鳥に因むにや、又神をも古人通じて賀茂と曰へる如し」とする。風土記にいう賀茂神話は、この地方の古代の豪族賀茂県主の一族が伝えたものであるが、賀茂県主は元来山背国の葛野(かどの)県すなわち鴨川と高野川の流域一帯を支配した葛野県主であったと見られ、その一族は鴨川の水源の1つである貴布禰神社の、いわば井の神を県神社として奉斎、これが上賀茂神社で、彼らはその周辺に居住したとされている。そして大化改新以後、この神社の地方大社としての発展に伴い、国家の宗教政策によって、奈良中期頃、蓼倉の地にあった分社が下鴨神社となったという。以後両社は朝廷の厚い尊崇をうけ、漸次神田・神戸などを寄せられていたが、やがて寛仁元年11月、後一条天皇の賀茂社行幸があり、この時両社の周辺愛宕郡内の8郷が4郷ずつ社領として寄進されることになった。翌2年11月25日の太政官符によれば、寄進地全体の四至は「東限延暦寺四至、西限大宮東大路同末、南限皇城北大路同末、北限郡界」と定められ、この内に含まれる8か郷のうち、下鴨社には蓼倉・栗野・上粟田・出雲の4郷が、上賀茂社には賀茂・小野・錦部・大野の4郷が寄せられた。その際、域内に散在する諸社寺・諸寮司領等は除外されたが、やがて諸郷は漸次一円所領化の傾向をたどったと見られ,ことに上賀茂社領の4郷は,中世に至り6郷に編成替えされ、「賀茂社境内六郷」として同社の強固な支配が中世末期まで維持されることになる。地域一帯は本来一括して賀茂もしくは鴨と称されたのであって、神社も賀茂上社・賀茂下社と表現され、上賀茂社・下鴨社と書かれることはなかったが、中世後期には、はじめて史料上に「上賀茂」「下賀茂(あるいは下鴨)」の書き分けが見られるようになり、また南北朝期ごろまで両者の中間(現在の左京区賀茂、府立植物園のあたり)に存在した集落を「中賀茂」と称するに至った。江戸期の上賀茂村・西賀茂村・下鴨村の地がほぼその境域。【出典

■ 賀茂(かも): 兵庫県丹波市氷上町賀茂。氷上低地の中央部。地名は,この地がもと京都上賀茂神社の荘園であり,北田井に存在する賀茂神社の氏子村であったことによる。【出典】 

■ 鴨方(かもがた): 岡山県浅口市鴨方町

■ 鴨志田(かもしだ): 神奈川県横浜市青葉区鴨志田町

■ 鴨島(かもじま): 富山県高岡市鴨島

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