明応地震
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■ 明応地震

・ 明応7年(1498年)8月25日辰刻(午前8時頃)の発生。

・ M8.5以上で20m以上の津波が押し寄せた記録もある。

・ 近衛政家の「後法興院記」より: 「伝え聞く、去月大地震の日、伊勢、参河、駿河、伊豆、大浪打ち寄せ、海辺二〜三十町の民屋ことごとく溺水、数千人命を没す、その外、牛馬の類その数を知れずと云々」。

・ 伊勢国の被害: 伊勢神宮の「内宮子良館記」によると、「今度大地震の高塩(高潮)に、大湊には家千間余人五千許(ばかり)流死と云々、その外、伊勢島間(志摩)にかれこれ一万人許も流死なり」とある。

・ 他に、駿河国では「溺死者2万6千人」。明応地震によって浜名湖に「今切」と呼ばれる湾口ができた。紀伊国の和田浦が壊滅し、住民は他の地に全て移住した。鎌倉の由比ヶ浜では、津波が若宮大路にまで達し、長谷の大仏殿の堂舎屋をも破壊して約200人の溺死者を出した。安房国小湊(千葉県鴨川市)の誕生寺が津波で水没した。

・ 応仁の乱の後の混乱期におきた。

【今こそ知っておきたい「災害の日本史」 白鳳地震から東日本大震災まで 岳真也 PHP文庫】  

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