沖縄県の戦国史
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■ 沖縄県の戦国史

# 沖縄県には戦国時代は存在しないので、ここでは尚王朝の成立について記載する。
 琉球では、12世紀から「シマ」と呼ばれる集落が誕生し、それらを束ねる「按司(あじ・あんじ)」と呼ばれた首長が各地に出現した。彼らは城(グスク)を築いて地域支配を始め、沖縄全土に城の数は300以上あったという。やがて14世紀には今帰仁の北山(山北)王、浦添の中山王、島尻大里の南山(山南)王に周約されて、この三家で琉球の覇権を争った。しかし、この三王は中央集権的なものではなく、按司の連合政権的なものであったという。【出典

# 1402年に、南山王の勢力内である佐敷按司の尚思紹・巴志父子は、南山最大の勢力を持っていた大里按司を急襲して滅ぼし、本拠を大里に移した。さらに1406年には中山の浦添を襲って中山王武寧を滅ぼし、都を浦添から首里に移して自ら中山王となって、明に使節を送って自らを中山王の後継者として認めさせた。【出典

# 1416年に、尚思紹は北山に侵攻し、名護・国頭・羽地按司らが北山から離反したこともあって、北山は滅亡した。そして、1429年に息子の巴志が南山に侵攻して滅ぼし、史上初めて琉球が統一され、尚王朝が成立した。【出典

# 尚王朝の六代目の泰久王のときに内乱が起こった。泰久王の義父で、初代思紹の北山攻めで活躍した護佐丸と、泰久の娘の百度踏楊の夫である阿摩和利の乱である。阿摩和利は北谷間切の農民から身を起こして勝連間切の按司を倒して自ら按司になって、海外貿易を通じて急速に力をつけた。一方、護佐丸は首都の首里と勝連の間にある中城按司をつとめ、阿摩和利を牽制した。【出典

戦国時代とは

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